がんばれ考

危機に瀕している人を、その状態から脱しさせようとするのであれば「がんばれ」ではなくて、恨まれるようなことを言えと、大昔に中学校の先生から教わった。その先生は先の大戦経験者でいらっしゃって、「暁の脱走」と、中国から命からがら逃げてきたことを授業中に語って頂いた。鉄兜を突き破って、頭部を弾丸がかすめ、はっきりと覚えているが、頭部に真っすぐの切り裂いた傷跡を御持ちだった。その方が「こいつを担いでいたら共倒れだ、後30m先に塹壕がある。そこまで自力で移動してくれれば」という状況で、ここでは書けないような事を言って鼓舞されたとのこと。

今の時代にそんなことをやろうものなら、言われた側は鬱になり、言った側は裁判でさらし者。従業員は逃げ出し、集まらず、そして離散していくのでしょうね。「がんばれ」って言ってはいけないと、どこぞのセミナーで言われたのだが、つい「頑張ってますか?」とか口から出ちゃいますな。頑張って欲しいと願う事も許されない気風になってきていると感じる。その人個人の能力を尊重しなさいって。そうなってくると、就職活動と言うか、雇用する側から見てね、本当に大丈夫かとAIを引っ張り出したくなるのだろう。

雇用される側においても、人に判断されるより気持ちが良いという声もあるそうだが、これはネット情報だから怪しいものだ。いや、就職活動に熱心な人に尋ねてみてもそう言うのかもしれないが、それは本心では無いかもしれない。こんな考え方に行きついてしまうと、何を信じて良いのやらモードに陥っていく。人の意見を聞きまくるという事になるのでしょうけれど、その意見は本心かそうでは無いのか?疑心暗鬼に陥ってしまう。先述の先生は「自分は生きて故郷の土を踏むのだ」というゴールを設定して、嘘か本当か関係なく、ゴールに連れて行ってくれる発言だけを信じたと仰った。

ゴール設定はこうありたいという願いの根本の自らのビジョンから創り出される。他人がどうのこうの言おうが関係無いのだ。「私のビジョン」を信念として持つ事。ビジョンを高め、そこに向かって何をするべきかを考えることは、自らに「がんばれ」と言うに等しいのだろう。いや、もっと凄まじい表現なのだけれどね。どうも小生が生きてきた時代と、様相が変わっているなとマスコミ報道を見るにつけ思うのです。そんなことで良いのかなと、諸外国の中高年の怯えが度が過ぎている気がするのです。こんなモノの良いようでも怒られそうだなとは思いますが、まぁ、戯言ですからね。