生きる理由

古来、哲学者は人はなぜ生きるのかを考え続けることに生涯を費やし、その解答に到達することなく、それを繰り返してきた。そんなものだと思う。いろんな学びがあって、何故学ぶのかという学びもあるくらいだ。安全と思っている家屋を出て、その近所をふらっと散歩してみると良い。何故、そうなっているのか理解不能な物にあふれていることに気付く。しかしその物体は、自分ではない人間が構造構築を成したものであって、その者にとってはそれが解答であったはずだ。人は人の理解には到達し得ない。それが答えだ。

様々な土地を歩いてみると、案外、歴史が浅かったり、その逆に、恐ろしく古かったり。そして千年の歴史を重ねて挑戦してきたとか、それでも叶わなかったとか、そんな人が願うことの歴史に共感しようと思ったら、その地に立って、関わりのある地域の歴史を学ばねばならない。学んだとしても、その土地の、その時代の人間になれるわけでは無いから共感に至ることは出来ないが、今の自らの有り様と重ね合わせて、自らはどのように生きようかと、考え直すことはできる。

道行く先々で何故か声を掛けられる。有難いことだが、威風堂々の依怙贔屓を受けるとちょこっとどぎまぎする。それで良いと思うと、気が楽になる。そんな生き方が出来るほどの自信を持つことが出来ていない自分の愚かさに気付かされる。聖者の物語は、自らの生き方に絶対の自信を持っていることが骨格となっている。悟りとはそんな状態のことなのだろう。そんな状態にはとてもでは無いが到達できないのだが、年齢を重ねていくと、命をどのように消費していくと思考停止にならないのかを考えるようになる。

変化させることが出来るのは自らだけである。自ら行動できる範囲が自らが生きる範囲であって、今、自らを活かせる領域である。自らを活かせる領域で最大限の活動をしている人と出会うのは楽しい。組織の一員ならば、その組織の中で自らの機能を発展させ続け、それが出来なくなったと実感出来たら、その組織においては終焉ということだ。終焉に到達できたら、それが生きる理由であったということではないか?そう実感した。