期待したい人と期待してはいけない人という枠組みが、長く生きていると出来てくる。期待してはいけない人には苛立ちが先に立つ。期待したい人には「それは面白い!」と期待外れなのだが自らの思考の枠を超えてくれて有難うと、感謝の気持ちが湧いてくる。面白いものだ。もう一歩踏み込んで、期待してはいけない人の有り様を精査してみると、課題を解決出来る人と、問題を喚起させてくれる人との違いであることに気が付く。課題解決は、既にAIのお仕事だ。AIに代替される人を、無意識に期待外に置いていた様だ。
この課題解決を得意とする人は、既知を組み合わせて未知と人に示すことが上手な事にも辟易している。「これは素晴らしいのだ!」と提案しても、なかなか社会の評価を得られない方は、その手の類にあると気が付けば良いのだが、どうも気が付かないから、更に既知を重ねていく。出来上がるのはその昔のガラケーであろう。凄いけど飽きられる。簡単に解けるパズルのようなものだ。
問題を喚起させて頂けると、地球の上に独りで生きていなくて良かったと実感させて頂ける。所詮、人間は狭視野の中に生きているから、その視野を広げて頂ける感動を、ついつい期待してしまっていることに気が付く。思いもよらない反応が楽しいのだが、それを楽しいと感じさせてくれる人と、言い訳と感じてしまう人と、何が違うのか自らに問うと、おぼろげながらに見えてくる。他人の意識に寄り添って語る者か、純粋にこうありたいと語れる者か。
教育の場に寄付をお願いすると「見返りは何か?」と問われる。投資して下さいと言っても同様である。株主が居るわけだから、株主への配当を考えると、配当説明が出来ない事には投資できないとなるわけだ。企業を潰してはならないのは当然だが、AIには期待できない問題を喚起してくれる可能性を育てることへの投資は、いずれ必ず大きな見返りを持って還る。「辛いことはさせないよ」というコマーシャルを見た。期待してはいけない人を増産しているこの国である。おぞましい。