夢は現在進行形で

スタートアップとかベンチャーとか、お若い方々にチャレンジして頂きたいのだけれど、チャレンジという単語そのものにアレルギーがあるようで、それは一体、どうしてなのかなと悩んでしまう。意識した行動って、自らの活動の5%らしくて、その他は無意識の活動なのだそう。無意識に文章を構築している戯言は置いておくが、申請書の文章などは意識しないと書けないのは間違いないですね。「それは大変だ」と思ってしまう。恐らく、他人の評価を気にしたり、主人公が自分で無かったりするのだろうなと思う。

こんなことをふと思うのは、お年を召された方々の意識の硬さにがっかり来ているからだ。こうあるべきだということに、何故、そうあるべきなのですかと尋ねても、返ってくるのは、それが当たり前だからだという、自分の中にしかないルールで他者を潰しに掛かってくる。新しく成りようが無いのかなとも考え始めている。結婚したら苗字が変わってしまうとか、同性婚がどうだとか、女性天皇は認めないとか、古い方々が言い合いをしている以上、何も変わらないのだろう。

全部が変わる必要は無いのだが、お若い方々には自らを主人公にして人生を送って頂きたいのだ。そう思っているだけなのだ。レストランで食事が出てくれば、やることは写真撮影であって、熱い内に美味しく頂くことでは無くなっている。常に他者目線で面白いのか?心から望む自分らしさを何故求めるのか。今までの事は振り返ることは有っても良いけれど、囚われる必要は全く無いのだ。親が大企業に行かないと恥ずかしいと言うから起業なんて考えませんとかね?ほんの僅かの命を、他人の意識の下で生きるのか?

在りたい姿を描く思考の方向性として、願望しないという手法が有効だと思っている。何かをしたい、こうなっていたいと考えてしまうと、過去をベースに自分の機能を考えてしまう。そうではなくて「私はこんな人達が喜ぶコミュニティの為にこんなことをしている」という現在進行形が良い。未来進行形にすると、将来はこうなっているみたいで、やっぱり過去に引きずられる。単純だ。主人公は自分、現在進行形の在りたい姿を描く。すると起業するしか無かろう。そう思う。