その季節に想う

mRNAワクチンの基盤技術開発が生理学・医学ノーベル賞を受賞された。世界を救ったのは間違いなくて、ノーベル賞は当然であろう。ノーベル賞が発表されるたびに、日本の技術がうんぬんかんぬんと負け惜しみのドミノ倒しがマスコミを賑わすのだが、国立大学が置かれた研究環境とか、大学経営と研究力の関係性とか、国内の研究力向上に向けた議論をしょっちゅうやって欲しいものだ。日本人は熱しやすく冷めやすいというのが売りなのだが、最近は熱することが無いから冷めることも無い人種になっていると感じる。

未だに、ちょこちょこ装置を動かしたりするのだが、それもそろそろ終焉に近づいてきていて、部屋の片づけに取り掛かっているわけだ。すると、いろんな本が眼に入って、新しいアイデアが生まれてくる。すると居ても立っても居られなくなり、自分で手足を動かす羽目になる。実に面白くて、経験から数式を眺めていると、あぁ、この現象の解釈にはこの理屈を拡大してみると面白いかもな、そんな考えは聞いたことが無いとなる。しかし、本当に新しいのかは論文調査を散々やって、雑誌に投稿して評価を頂いて初めて一歩となるわけだが、その時間が無く、結局、アイデアはアイデアのまま、脳に刻まれて消えていく。

恐らく、そんなアイデアが世界中に山の様にあるのだと思う。ベテランの先生方からは「何とか居られるようにしろ!」と迫られその都度、切なくなって御免なさいになってしまうのだが、新人の獲得と育成は勿論必須なのだが、ベテランだからこそ辿り着ける境地というのがあるのは間違いない。それを活かす仕組みがあっても良さそうなものなのだが、面積が限られ、予算はもっと限られという環境の中、かじ取りは極めて難しい。

水とセメントとヨウ素くらいしか資源が無い我が国において、学理は生み出せる数少ない要素である。その要素に眼を向けて、旧態依然のテーマでは無く、社会変革の夢をもって新奇のテーマ設定に挑む若手と、学理の深化で新奇を見出すベテランと、そしてそこに生まれる感動に巻き込まれて開花する学生と。そんな一体となる姿を描きたいのだが、どうも「俺が俺が」の声が大きい。まぁ、誰にでも出来るんでしょうからおやりになられると宜しい。見るとやるとは大違いだけどね。