何も出来ないからこそ

もう42年も昔の事だ。講義で教授が「高卒と大卒の違いが分かるか?」と仰り、続けて「高卒は自分が何か出来るかもしれないと思い込める、大卒は自らが何も出来ないことを認識できる。だから努力出来る」と仰った。強烈な思い出である。実際に大卒になってはみたものの、確かに、何が出来るのだろうと、大学院に進んでは見たものの、学位を頂いた時に感じたことは、「存在する課題はつまらない」ということであった。実に生意気である。

生意気であるのだが、事実である。目指すべきものが与えられて、そこに到達すれば良いと言われたら、誰かほかの人、やって頂戴と今も思う。ぶら下げられた人参に向かって競争をさせられるわけだが、組織としてはそれに参加して、そして人参にありつかないと死んでしまうから、なんとかして頑張るわけだが、精神的に辛い事、甚だしい。規則の通りに動きますという時代では無い。世界は猛烈に変化しているのだ。社会を先取りするルール改定こそ挑戦し続けるべきだ。

想えば、学位などというものが役に立ったと感じたことは無い。海外では当たり前の代物だし、日本ではもの好きの称号みたいなもんだからね。役に立てようとも思わないが、それでも、それに向かって日夜、何故、あんなに没頭できたのだろうと不思議に思う程に取り組んだ、その行動から得た「諦めない」精神は、今の自分の骨格となっている。

いよいよ卒業シーズン到来で、大学の校舎も不夜城になってきた。真っ暗だった夜明け前の校舎に明かりが灯るのは心地良い。そうでなければならない。そうだからこそ、日本の明日があるのだ。国家的に研究費は少ない。しかしもっと少ないのは、夜も日も無く未知に向かって無意識に歯を食いしばる若者では無いのか。効率は大切だ。しかし、非効率が生み出す破壊的イノベーションも捨てたものではない。護るものなど何もなくなった国において、今を破壊する力の醸成こそ国が進めるべきだ。成さねばならない。