無くなっていくもの

中途半端なものはいらない。世界中の人々がデジタルカメラに突き付けた最後通告であろう。Nikonですら突破できなかった。写メという文化が生まれた時、そこは箱根であったが、電波にのっけて異空間を共有するという概念の発達は、繋がらない文化を完全に駆逐した。綺麗に記録出来れば良いという時代から、共有という文化が生まれていることに気付かなかった企業が消えていった。

次はタイヤだろうか?自動運転で最適経路をたどり、渋滞がなくなりブレーキ回数が減ったら、タイヤのすりへりが劇的に減少する筈だ。そうなるとタイヤメーカーも生きていく方策が無くなる。タイヤが激減したら生ゴムの生産も減るから・・産業とはそいうものだ。今T社は図面を回してくれるが、近い将来、それも無くなるだろうとなると、図抜けベンチャーかトップ企業以外は誰も残らない。

ただ、そんな事例が滅多やたらとあるわけでは無くて、今のところ、分かって居いる無くなるポストは限定的だが、連鎖反応的に爆発的に増えるのは間違いない。大学の講義などはその最前線であろうそして誰も居なくなる。まぁ、そうだろうなぁ・・

その前に、研究開発費を一切掛けない企業が無くなるかもしれない。上から目線の究極を行く。ゼロ円食堂という企画はよくやったと思う。企画にとてつもなく金は掛かるが、ゼロ円のイメージは素晴らしい。捨てるものが生きる。その感覚が良い。身の回りを見てみれば無駄な物体がごろごろと・・。そうならないように今日も頑張るとしよう。それだけだ。