籠城

ふと思い出した。安田講堂、市ヶ谷、浅間、簸川、日本にあった籠城の歴史。思い起こしてみると学生時代というのは籠城の歴史だったなぁと。その籠城は開けた籠城というのが、知られた籠城とは異なっていた。逃げて心を閉ざす籠城と、進んで心を開く籠城とはまるで違う。違うが、社会は同類と考える。何故ならば、過去に住んでいるから。

未来から戻って、今を考えると、何度も何度も非連続の瞬間があった。それを当たり前と受け取る種族とそうでない種族が選別された生命の歴史であった。フラッシュバックするわけだが、それをまた感じるところである。不連続が現れる。

不連続こそ進化の歴史である。周波数が大きくなるだけで5Gだ何だととは、決して不連続ではない。マスコミは「えらいこっちゃ」と5Gの登場を政治の転換の様に祭り立てるが、それを受け取る側の姿勢が全く変わらない以上、静かに浸透するというレベルなのだろう。実際のところ、電子機器が漸く人間の反射神経程度になってきたという歴史的瞬間ではあるのだが。

籠城は古くからある。多くが守ることだ。攻める側が籠城した歴史は無い。無いが、未来からやってきた者からすると、過去こそ全てという攻め手への籠城ばかりである。そんなことで、今週は、籠城してみようじゃないかという、そんなところだ。