熊本旧居

週間夏目漱石的な戯言週間でしたが、取り敢えず何を紹介して終わろうかなと思ってはみたものの、どれもこれも素晴らしく、締めのご紹介ということにはならないので、悪しからず。まぁ、戯言で漱石を語ることそのものが恐れ多いので、小生的にもこれは一番素晴らしいなんて序列を持っているわけでは無い。全てが素晴らしい、そうとしか言えない。

後期三部作と呼ばれる彼岸過迄、行人、こころであるが、これらの作品は、正に嵐の如く読み手の心を奪い去る。行人の如くは一行読み進む毎に胸が締め付けられ、没頭を迫られ、通勤時に読んでいる際に、どれだけ乗り過ごし、降りる駅の手前でタイマーが鳴るように設定したのは行人からである。いずれにせよ、一読では勿体なく、風景を味わう如く、自らの気持ちと経験から、そのドラマの中に自らを置いて読むべきである。いや、書物の中に飛び込むべきである。

全集や画集はその場所を大きく取るわけだが、寺田寅彦や内田百閒の全集も併せて書棚に並べると、それは壮観な景色で浮き浮きする。漱石一門の作品群においても、その時代背景を体感でき、それらによって、更に漱石の作品の深さを実感できるのである。景色を実体験しては作品の光景のイメージ化を阻害すると述べましたが、一か所、行ってみてはどうでしょうというところに、熊本の漱石旧宅が御座います。

夫人と暮らし始めた建物がそのまま残り、寅彦が下宿を断念した馬小屋まで残り、これなどは、寅彦と漱石の関係を体感する上で重要な体験でありました。明治の遺構は日本ではとても少なく、戦災もあり、漱石の景色は殆ど体験出来ないわけですが、熊本で6回引っ越しした中で一番良かったと言っているくらい、立派な旧居です。明治村も良いけれど、熊本の旧居は良いですよなどと書きながら、作物への想いは深みにはまるので止めておこうと、やっぱり趣味を書くのはどうかなと、迷い抜いた漱石週間でありました。