黎明は何時?

小生がガキの頃、田中角栄氏が日本列島改造論をぶち上げた。何もわからず、何がどうなるかも理解できず、大雨で街が水没しなくなるのだな位にしか思えなかったが、千葉の停電とその復旧の体たらくを体験してしまうと、改造の仕方が間違っていたのではないかと感じる。電力発生源として低コストを考えると、未だ原発を超えるものがありませんねと、原発に縋り続ける状況である。共同溝に電力線が収まっていたら、かなりの部分の停電は避けられたのでは無いか?

エジソンの素晴らしさは、お金儲けの為に電力網を創っただけではない。その電力網が社会を醜くしてはいけないと、アスファルト舗装によって電力線を地中化する手法を考えたことだ。地中作業は架空作業に比べればコストは甚大となるだろう。しかし、そこにこそ税金を投入する価値があるのではないか。電力網では無いが、交通網を考える時、なんでこんなに渋滞するインターチェンジを作るのかと、不思議に思う日本の道路構成。

そんな渋滞に巻き込まれる時、丁寧さが欠けているなと感じるのだ。四日市の新東名なんか、もう壊れてしまったしね。いい加減さが漲っているなと情け無くなるのである。利用者の快適を考える丁寧さこそが思いやりであって、作り手の都合を超えるべきだと思うのだ。初期のオーディオ機器を構築した、後のウエスタンエレクトリック社のメンバーには、精神医学者まで参加していた。心地良いとは何かからオーディオを作り込んだ。これこそ利用者の快適を考えたものづくりだ。小生はそれを根幹に置きたいと思っているのだが、常に追いかけるばかりである。

学理としての情報学の進化が世に存在するべき機器の存在理由を決める時代になっている。工学の中核が人間の脳活動を学理とする学問に定められるべきであり、そこからものづくりの方向性が決まると考えている。しかし、人間の繊細なセンサー機能とそこから得られる情報を包括して次の活動に移動する意識活動にどうやって「もの」の能力を近づけて行けば良いやら。一つ言えることは、今ある機器の精度・確度など、まだまだ足りないということ。だから頑張れる。究極のオーディオを目指しながらも、先輩諸氏の圧力で挫折し自ら命を絶ったJBLの世は払拭されなければならない。しかし、今の日本、なんとなくそんな時代の継承だなと、黎明は遠いなと、なんとか近づけたいとあがく、私であります。