感情の柔軟化

マナー云々あるけれど、年齢と言うか、時代に即したルールがあるのだろうからとやかく言いたくないなぁと思いつつ、同年齢の集まりだと感じないことが世代が異なる人々との集合では感じることがあるなぁと、マナーというか、人前での振る舞いというか、見たくないものを見ることもある。これまた昨日のふとした一言のように、気を付けなければと感じることでもある。やはり人の振り見て我が振り直せというのが基本なのかもしれない。

若者文化を直接感じるのは、正に、講義の現場である。新しいネタを盛り込もうとはするけれど、確実に開く年齢差である。それは埋めようと思って埋められる代物ではない。文字を書くよりも写メで済ます文化の持ち主に、何を言っても無駄なのである。画像化した意識の伝達手段が主要な情報伝達の手法となっていて、まるでエジプトの象形文字世界の生命体の如くである。筆記試験など課すと、読み下すのにロゼッタストーンが必要なのではと唖然とする。

電車内マナーなどは、既にマイナーな人種となっている小生などにとって、何が正しいのかさっぱり分からない。新幹線ですら、しかも指定席車両であってすら、どかどかと人生の大先輩たちが割り込んできていて、小生や、小生よりも相当にお若い社会人の方がじっと待つ。手前の席で弁当を広げて、すみませんと言うと睨まれる。横浜まで待てないのか?と品川から乗って思うのだが、そんなことを想うことも、思う方がマナー違反なんでしょうね。奥の座席を確保するなら始発駅から乗れと。

パワハラ、アカハラ様々あれど、これなども世代障壁がかなり大きいのではなかろうか?当たり前と思うのは自らだけだと納得して、見てみぬふりを残りの人生貫くしか無いのかもしれない。世代がどんどん若返るし、昨日の常識が明日の非常識となり続ける、世界的情報が入り続ける現代である。感情の柔軟性を高めていきたい。心底思うところです。