時間を作りたい

ちょっと前までは研究に没頭することを許されていたわけだが、感じていたことは、日に日にその没頭時間が短くなっていくことだ。多くの文献に「大学研究者の雑用と呼ばれる部分が多くなっている」と取り沙汰されて数十年が経過していると感じる。学生の頃から、直接、ご指導を頂いた先生の口から度々漏れていたことを考えると、これは構造的な問題であることは明白だ。これは断ち切らないといけない。

活動範囲がグローバルになって、世界の進歩が高速化しているわけなのだが、人間のシナプスの接続速度が進歩に合わせて高速化したとは聞いたことがない。思考速度が変わっていないのに、入ってくる量とその時間的密度が大きくなっているのだから、むしろ、研究に没頭できる時間は増やさなければならないのだ。しかし、あれもこれもと足し算していった結果が今だとするならば、「時間が無い」と感じていることは自分達が引き起こした現在の宿命ということになる。引き算せねばなるまい。

会議を減らそうというお話はよく出てくるが、会議のための準備の会議があって、事前の資料の準備もあって・・一つの事を決めるのに大量の人が動き回り、知識のキャッチボールの結果で決定が下される。独裁はいけない、それはアイデアが細いからだが、アイデアを太くしながら、関わる人とその時間を減らすことは出来ないのだろうか?地球規模の問題であれば、必要な行為だが、小さな組織でも地球規模の会議を開いて意思決定をし続けることから、何故脱出出来ないのだろうか?

切り捨てる勇気と改革の意欲は、どちらも必要であって、どちらも個々人での日々のワークにおいて考えるべき事柄である。普通にやっていたことが何も生んでいないのであれば、自らのPDCAによって価値を産まないものは取り敢えず切り取る勇気が必要である。後で使うだろうと思って取っておいて、使った試しなど無い。当たり前だが、社会は高速に先に行くのに、過去の思考がそれを凌駕することはほぼ無い。古典と呼ばれる人類の叡智と、たまたまの思いつきの個人の差なのだが、しかしキラリと光る発想もある。それは勇気を持って公開、共有して智慧に発展させていく。集団の無駄を削いでいく方策は、結局は個人の図抜けたひらめきということなのかもしれない。難しい課題だ。