誰の「せい」?

つい、誰かの「せい」にしたがる。プライドとか経歴とかポジションとか、面倒なものが「せい」の発生源を自分以外に作り出そうとする。しかしその「せい」を知っている人は、その根源が自分にあったことを熟知している。熟知しているのだけれど、そのレベルが心の奥底にあるが故に「蓋」を被せて見えなくしてしまう。どんどん蓋の内側が膨れ上がって、それがいつしか破裂する。パンドラの箱を開けるのは自分自身だ。その時、心の内側に希望が残っていれば救われるというものだ。

最善って何かと言えば、相手を最大限に慮って尊敬し、その結果、持ち得る時間を最大限に活用した時、もうこれ以上盛り込むと全てが破綻するという限界に目標を設置し、活動を計画出来た時、そこで生み出せる相手の最大の笑顔が最善である。自らの成した行動ではないのだ。自分が成した行動に最善を求めると、そこには「せい」が発生するし、心のパンドラの箱の蓋を押し上げる。自分を大切にするということは相手の最大の笑顔に関わらせて頂きたいと願うことなのだと、なんとなくだが想うようになってきた。

当事者意識なんて単語を久しぶりに使ったわけだが、「他人事」は年中使っている気がする。いや、間違いなく使っているのだ。自分が体験して見ないと、同じ体験をしている人の苦しみは解りようが無いし、それこそ自らが任せられている職務の最善を考えると、時間を奪われたくないという考えが先に立ち「他人事」モードに入っていく。しかしそれで本当に良いのですかね?人間というたった100年で命が尽きる生命体が、あれもこれもやる必要があるんですかね?

聖人君子ばっかりの世の中は面白く無いと思ってしまう事自体が、自分自身が一度も聖人君子に成れたことが無いから生まれ出る思いだが、それらの人達にとっては心の豊かさを尊敬仕合、全ての事柄に当事者意識を持ち合って接していらっしゃるのだろうから、それはとても愉快な状態なんだろうなと、今日は少し頑張って、明日も少し頑張って、いつかは当事者意識に満ちた人に為ったとしたら、見える世界があるのだろうと信じつつ、心の底の蓋を取り払ってみたいものだと想う私であります。