絶対値は無い

完成したとか、出来上がったとか、そんなものは世の中には無い。妙なお話だけれども、例えば火炎土器という縄文時代の芸術品ともいえる「土鍋」だって、様々な思考を人々に与え続けている。それに関わった全ての人の営みも含めた代物であって、完成してはいないのだ。完成という単語は簡単だけれど、それは永遠に得られないものだと思っている。

論文を書いてみても、少し時代が進めば陳腐化して風化していく。その意味合いはどんどん変化するのだから、完成では無いのですよ。表現は難しいなと感じます。骨格というか軸はぶれないのかという問題もあるけれど、それすら変化していくものだと思っている。「絶対にそれは譲れないのだ!」と迫ってくる方々が大勢いらっしゃるわけだけれど、譲れないのは「変わる」ことであって人の立ち位置ではない。

社会相対論とでも言おうか、座標が様々に変化して、相対関係が変化していく。共通なのは時間軸であって、過去から今に、そして未来にという軸の流れの考え方はそうなのかもしれないけれど、それも怪しいのでは無いのかと思ったりもする。経験と言うけれど、それは自分自身で感じることであって、それとて、経験したことが今は異なる感覚なんだよねなんてことはしょっちゅうである。

結局、その瞬間瞬間を猛烈に強烈に受け止めて、自らの心に刻み込むということを繰り返すしか無いのだと思う。価値観?人の数だけあるわけで、絶対指標なんて意味すら無い。為政者を見たまえ、賄賂だのが横行し続けるではないか。それがその人達の価値観だし、私と違うと思っても、その人達を選んだ人々が数万人以上もいらっしゃるのだ。一人の価値観など塵に等しい。いやそれ以下であろう。存在すらない。だから自分自身、しっかりと大地に足を付けて踏ん張る。それしかない、そんな時代だと思う。