リノベーション

1970年台初頭に建てられた公共の中規模施設の未利用荒廃が進んでいるらしい。大都市圏においても見受けるが、少し離れてみると車窓から「見たくない」元リゾート物件と思しき建屋が目に付く。名古屋圏では知多半島などその代表格ではなかろうか。下手に手入れをしようとすると、当然のことながら税金が投入されるわけだし、上下水道・エネルギーインフラなど新規敷設の方が余程安上がりなのだろうなと、荒廃に任せて大地震で粉砕を待っているのではと勘繰ってしまう。

街中の小学校などが人口減少で統廃合による廃校になり、その後、第三者による改築と貸し出しというリノベーション物件はそれは幸せな部類かもしれない。一方で、学校というそれなりに大きな面積を有している施設をそのまま残すというのは、都市部のあり方として難しい面もあろう。防災施設としての活用は維持されねばならないだろうし、あくまでもついこの間まで学校だから許されていたことも、そうでなければ怒髪天を付くみたいなことだってあると思う。人が創ったものを永遠に使えると思う方がおかしい。

そこに住む人達が有効に土地を利用できるということが、まずは国家であるということだろう。元気に頑張って活動できる。マーケットが無くなるのは困るということではなく、そこに住み税金を支払っているのであれば、それはなんらかが成されなければならないだろう。とは言うものの、公共サービスにも当然のことながら限界がある。人口減少まっしぐらの我が国であれば尚更だ。良いものが安いということにも限界がある。一方で、日本社会が陥っている罠も感じる。

1980年台前半のバブル前は良いものを安く海外に出し、日本たたきまでやられる程の元気があった。太陽電池等の半導体製品の日本の優位性は素晴らしかった。過去形である。今や、単に世界で最もコストの高い代物に成り下がっている。人件費だけではない。製造機器の古さからくるコストアップによって、世界が2020年に到達するであろう火力発電コストと自然エネルギーコストの逆転を日本は2030年を見込むという。地産地消エネルギーの活用は生活スタイルも変えていく。太陽に従う生活で良いではないか。それでも原子力か。公共財とエネルギーという国家根幹の問題も先送り。先送りされるのは今の大学生以下の人達が背負う世界。日本らしい。