開催式考

ナショナリズムという単語を四年毎に聞いてきたが、今年に限っては五年目にずれ込んだナショナリズムではあるが、やっぱりグローバルというより、まずは自国の選手の挑戦に力が入る。応援という生やさしいものではない。もう、魂が一体化したような、そんな応援をしている自分に呆れるのは、オリンピックをおいて他は無い。アスリートの皆様にとっては余計なお世話なのは間違いの無いことなのだが、国旗が揚がれば嬉しいですよ。国粋主義者でもなんでもない。オリンピックってそんなものじゃないかな。200を超える国の人々が日本に来て頂いている。それだけでも素晴らしい。

スポーツとは全く関係の無いところのお話だが、首相は何を語っていたか?絶対にオリンピック起源の新型コロナ感染者は出さないと。マスコミは忘れたふりをして、マスコミも黙ってしまう。それがこの国の民度だ。嘘をついたら嘘つきと追及すれば良い。それがマスコミの務めだ。国家を想い尽くした田中角栄氏は抹殺したくせに、現政権に対しては何故黙るのか。薩長のクーデターが未だに威力を発揮しているのだなと、ざんぎり頭を叩いた幻影を未だに神格化する恐ろしさだ。オリンピック開幕を宣言された天皇陛下の御起立に追従しない、首相である。それを選んだ国民の民度の低さを嘆いている。国民全員が国家のあり方を否定した瞬間が、世界に放映されたわけだ。

他国でのオリンピック開催であればこれほど気にはならなかった。自国でのオリンピックであって、開催が延期され、アメリカのテレビ局の圧力で妙な時間帯から始まって、天皇陛下に深夜までお出ましを頂き、健康を阻害することを容認する首相は、天皇陛下の御離座に従わない意思を示した。国家の歴史への反逆であり、マスコミは圧倒的な迫力を持って糾弾せねばならぬのに、翌日の新聞の見出しには何もなく、ネットニュースに若干の影があっただけだ。恐らく、この戯言の読者にも意識は無かろう。

日本という国は、まぁ、今上天皇陛下の血筋の議論は兎も角、神代が作られた国の、その神の遺伝子がそこにあり、統治は民の代表にありながら、中心には神がおられるという形態があってこそ、海外から「真っ当な国家」として認められているのである。国民の代表である首相が、天皇陛下の御離座に従わず、着座して都知事と談笑する様の国際報道程、国家反逆として認識されるべきでは無いのか。あぁ、久しぶりというか、真っ当な戯言である。国民は刮目せねばならぬ。その様な首相を選んだ自らの愚かさに対して。良き、オリンピックの開催であった。小生はそれを体感した。