台風の如く

コミュニケーション力という単語が独り歩きして、自己主張することがコミュニケーションだとはき違えている方が多い気がする。話を全く聞いてくれず、一方的に喋りまくって、「はい、やりなさい」。すげ~なぁとある意味感心してしまう。それで相手が納得して思考してくれると思っているのだから幸せだ。聴き力が無い、単純に言うとそういうことなんだけど、何でなんだろう?

電車の中でも歩きながらでも、人々の携帯画面へののめり込みは凄い。暇つぶしの意味もあろうが、電車の中では特に感じる。時々、社会人の方で、紙の大判のノートに、なにやら書き込みながら首をひねっていらっしゃる方をお見掛けするのだが、妙にほっとする。小生もスマホと紙の手帳、ノート派であって、紙にアイデアを羅列していくと何やら思考が膨らんでいくから面白い、電子ツールでもかなり試したのだが、根っからのアナログ人間なのでDXとはいきませんな。

聴き力って相手への共感の窓口だし、聴き手として相手に対して自分の存在意義を見直す良い時間なんですけどね。話をしている人に「あなたはこう主張されたいのですね、その理由はこうなんですね」ってところまで達したいわけですよ。こちらはその気で聞き役に回るんですけど、論調は無茶苦茶で自己主張という名の我儘の押し付け。説得なんてしてこない、ひたすら主張。ゴールを理解出来ないから、その先に何をしたら良いのか分からない。

協働を通じて相手の成長への関与にも踏み込みたいのだけれど、そんなチャンスは与えられない。えらぁい先生が大上段から落としてくる雷は、まぁ、ご経験からなんだろうなって変な納得に至るんですけど、20歳も若い方に言いまくられてもね。こちらから返答してもそれには全く応えてはくれないしね。コミュニケーションってそういう事だって教わって育ってきたのかしら。そういう世界には住めないな。そう感じる出来事があった。