餅屋が餅を作らない時代

研究という場において、そのスタイルは時々刻々と変化していくものだろう。最初の原子論をまとめたデモクリトスなどは、様々な現象を可能な限りの事象に基づいて纏めていった。師匠も居たが、独立独歩で、他者からの干渉がどれだけあったのかなどは今となっては解り様も無いが、分割できないものから全てが成り立っているという、まぁ、当たっていなくとも遠からずの、自らの結論を導いた偉大なる先哲でいらっしゃる。今の時代にそれは無いなと思うのだが、とても羨ましくもある。「それに没頭する」ことが出来る環境は素晴らしい。

まぁ、それはそれとして、現状はどうなのかなと思うのだ。それを支援する立場になってみて、多く、やはり「お籠り型研究者」が圧倒的多数なのでは無いのかなと感じている。しかし、例えば工学なんてものは、天が与えた学理を地の民に繋げていく役割を担うわけで、お籠り型で本当にそれで良いのかと疑念を抱き始めているわけですよ。研究成果が社会実装されなければならないなんて思っていませんよ。そんなことになったら、社会はモノで溢れかえってしまう。

基礎から応用までなんて、何とか学部が学理の壁を作っているかの如く、自らを縛ることも気に入らない。社会実装しようとすると、自らに足りない要素技術も見えてくるのだ。基礎を極めようとするなら、それを目に見える形に図面に書いて、ファブレス型研究者としてものづくりを外部に発注してみると良い。まず、出来上がらないから。あれが足りない、これが考えられていない、なぁんにも出来ないってことになる。恥を掻いて痛い目に遭って、漸く基礎が基礎で無かったことに気が付くだろう。そもそも警報ランプがついているのに、それを消すことも出来ない者が、研究者か?

ボタンが無いとデータを出せない、図面を書けない、装置の構成要素も説明できない。そんなことで良いのかね?旋盤、フライスを回せとは言わない。今、無い情報を獲得しようとしているのに、存在している機械に依存して、出来上がりのご立派な装置から出てくるデータだけで論文にしていって、それって既に古いんじゃないのと思うわけだ。年寄りが何か言っていると鼻で笑われるのだろうが、そんなところに日本の凋落があるのだと思っている。モノが出来なければビジョンと図面を持って外部と繋がるのが宜しい。餅は餅屋だ。でも最近の餅屋は機械で持ちを作る。そんな餅屋には世界発は無理だ。大丈夫か、日本?