こんな事が出来たら素晴らしいのに!ということにチャレンジをしないのは何故だろう?そこに知識を持った人間が居るのに、助けを求めないのは何故だろう?まぁ、企業さんにとってみれば利益は自分だけにして、他社には潰れて欲しいわけだから(極論)オープンイノベーションとかは以ての外、共同研究だって、何処から秘密が漏れるかもしれないと疑うような人には出来ないでしょうね。スパイ天国のくせに、そんなせせこましいことだけは拘ったりするから厄介だ。共に大失敗しましょうなんて景気の良い話は全くない。
執念深くやっていると、何かが見えてくるものだ。生物が何十億年か掛けて成り立っている「今の最適な状態」とて、技術を持って模倣できるものもいくつか現れてきた。人類とは恐ろしいなと思うわけだ。ナノテクノロジーなどと言って、形だけでは無くて、素材の原子配列まで模倣して並べてしまう。誰もが出来るわけでは無いが、出来る人が居るというのが凄まじい。この出来る人は何故出来るようになったのかという謎がある。
その謎には一つ、「とてつもない失敗経験」というものがあるような気がするのだ。どうしようもない失敗で、今、思い出しても赤面で、消し去りたいと思う過去を持っているかどうかではなかろうか。そしてもう一つ、徹底的にいじめられて辱められて、それでも何とかその世界からはい出して、今を明るく生きているということ。この二つの経験は自らの行動を精緻に観察でき、そして「こうやってはいけない」という野生の勘が働く。こうやってはいけないが、本当かどうかは解らないのだが、正解に辿り着くには分岐を減らすことも大切だから、そんなことにはこの経験は役に立つ。
この2つの経験は謙虚さも生む。自分はどうせ何もできないのだと、自分を追い込めた人は、そこから頑張れば何かか生まれると体験している人だ。ゼロから数字を生んだことがある人は、倒れてももう一度ゼロになっても、そこから起き上がって何かを創り出す人だ。そんな教育者が必要だ。そんな人間が研究者を育てるのだ。乳母日傘(死語)で育ててはいけないのだ。暖かく、そして極限まで冷徹になれなければ人は育てられない。生易しく中途半端に満ちている気がする。逃げ道ばかりが世に蔓延る。それは気に入らない。