だんだんと見えてくるものがあって、古い言葉で言えば機械化、今でいうなら情報化と言うことかもしれないけれど、日々の業務効率を上げていくことを考える人と、今からの変更を絶対的に拒む人と、その両極端なのだなということ。「何故、それを成すのか?」という問いが存在する場と、存在そのものが認められない場と。人間中心か作業中心かということなんだけど、後者の存在がメジャーなうちは、仕組みの変革というものは生じないのだなと実感している。
外界と繋がっているわけだから、組織単独で決定できることは限られているわけだが、それは外から見て成すべきことが決まっているということで、それをどのような作業によって解決するかは事業所側のやりように委ねられているはずだ。それが数万年前からのやり方で延々と繰り返し続けるということは、大きな決断によって変革が可能だ。事業所全体を一気に変えないといけないから、それはそれで大変なことなのだが、ワークフロー入力とかね、一夜にして成し遂げてきたわけだから、次もやれば出来るはずなのだ。
考えてみると、今までのままであり続けたい組織において、改善意識を持った人間と言うのは間違いなくエイリアンで、排除するべき存在である。しかしながらご存じの通り、エイリアンはしぶとく手ごわい。そう簡単に倒されないのは周知の事実である。そもそもエイリアンそのものがイノベーションであり、受け入れられないことが必然ではある。しかし、エイリアンは増殖し、いずれ押さえきれなくなる。その時では遅いのだ。
ヒューマンファーストが書類ファーストになる。創造という意欲を持つこと自体が異端視され続けるわけだが、オフィスと言う場がオンラインでは絶対に得られないアウトカムズを創造する場でなければならなくなっている状況において、部下の監視が出来ないから旧態依然が良いのだとかね、上長はアウトカムズを産んでいらっしゃるのかしら?今日もバックキャスティングだ。フォアキャスティングの守りの方々にはご退場を願いたい。そう思っている。