NDA考

知的財産をどう扱うかという前に、知的財産を産みださねばならぬ。それは当たり前の事なのだけれど、それを産みださねばならない人の育成という観点を日本はしっかりと認識しているのだろうかと不安に思う時が多い。何をもってして「発明者」と呼ぶのか。勿論、定義と言うか、事例と言うか、慣例と言うか。それは存じておりますよ。外部の刺激をトリガにして「思いつく」なんてことはざらにある現象であって、相手に何を喚起しているのかなんて考えながら雑談をしているわけではない。

その雑談の中にあって、ふと思いついて、それが発明となった時は、その思いついた人の発明になるわけだ。否定はしないけど、なんだかなぁと思わなくもない。まぁ、発明をするような人は、年がら年中悩んでいて「こうありたい姿」をイメージ出来ているからこそ、ほんの小さなトリガで、シナプスの再配列を生じさせるのでしょうね。無意識の一言が相手のシナプスの再配列を誘起して、発明を産ませてしまって悔しい想い位だったら我慢するとしよう。

ところがだ。明かにこちらの知的財産ですよというところに、知らぬ間に入り込んで来て、それをあたかも自分が関わったかのごとくに言いふらし、利益をさらっていこうとするコンサル業者の何と多い事か。最近は面談お断り事例がかなり増えたが、それはそんなことが要因だ。対面の会議からはそそくさと逃げ出すのもそのためだ。いきなり一見さんが見知らぬ人を連れてきて、後からその見知らぬ人から「一見さんから金を取られた」とかね。知らんがや。

大したことなど無いのだ。発明って、その生まれた時には、何年も徹夜して、病気になって苦しんで、何人もの協力者と造り上げた結果得られるものだから、もの凄いものって感じてしまうのだけれど、それを越えるものを作ってしまうと、なんであんなに自分の成果って息巻いてしまうのだろうと反省する。知財の権利に刻限が付いているのはその為であろう。とても正しく思う。直ぐに真似されるものなどはそれこそ大したことはない。それでもシナプスの森に土足で入り込み、乱していく奴は大嫌いだ。