感じること

盆地の底は16度もあるのだけれど、富士山のてっぺんは凍り付いて陽光を照り返す。流石の三千七百メートル越えだなと、直ぐそこに見えていながら遥か彼方に聳える貫録に感心する。そんな週末を過ごしてみた。愛知県からだと3時間程度で、その景色に対面できる。愛知県の素晴らしさだ。世界を見れば地政学と言うと、ここで戦争がとか、主義がどうのとか出てくるが、今の瞬間を精一杯生きる身には、目の前の輝く山頂を満足すればよろしい。既に三月の第二週である。

道行く観光客の、なんと人が多くなったことか。関東地方で東京に近いということもあろうが、関東に接近すればするほど、混雑は著しく、少しの坂道でも減速し、不可思議な進路変更が目の前で発生する。そんな時にはギアを落とすのがよろしい。思わず「危ない!」と叫ぶ場面が十数メートルの距離で発生する。大先輩がアクセルとブレーキを間違えて踏み込んで、後輩達の人生をストップさせて頂いている。これもまた日本である。

名古屋から東に向かって走行していく時には、登ったり下ったりで、平均的には平坦かなと感じてしまうのだが、西に向かうと、富士山の裾野から下ってくることを明確に感じる。実に不思議な感覚である。背中に富士山を感じて、転げ落ちるかのごとくに下っていることを感じるのだ。とすると、この中部圏に至るまで、富士山の裾野が広がっているのかと感じてしまう。それ程に富士山は大きいのだなと。そして孤立している。

この孤立と言うのが凄い。日本と言うちっぽけな国ではあるが、その中で最も高いのに、ひたすらに孤立して頑張っているのだ。頭のてっぺんが凍り付き、遠くで美しいと言われながら、その実、日本の屋台骨を支えている。こんなにいかした在り方があるか。西に向かい、やけに下っているなと感じながら、背中に偉大な存在を感じた。何百回も繰り返し通ったはずなのだが、不思議とそれを実感した。人生とはそんなものかもしれない。そう感じたら、感謝することだ。尊敬とはそんなものかもしれない。見せかけでは無いのだ。