獅子の如く

誰もが知る鏡獅子の静寂と激動。世の習いであろう。がきんちょの頃から馴染んだ舞踊であるのだが、一時間余りの舞台を思い出してみると、獅子は美しくも恐ろしく、目の前がくるくると回り固唾を飲んでいたわけだが、他の舞の美しさは、妖艶に美しく、艶やかとはこのことかと、獅子との対極に感動していたのである。このような世の中こそそばらしく、静寂だけでも激動だけでもいけない、その両方があることが美しいのだと、突然思った。

とある人と近江のお話をさせて頂いている。都から浜名湖がある遠江に対して、近いから近江ということで、何とも飛鳥の時代の暢気なことであるかなと感じるわけだ。貴族同士が内紛ばかりしていて血なまぐさいイメージしか無いのだが、考えてみればそんな筈は無かろう。政治に静寂の時があったろうし、ルールとして、都に近いから近江、遠いから遠江とは愉快ではないか。近江の話は本当に暢気である。

近江は飛鳥の時代には近海と表記されていたが、歴史上、広い水たまりを江と呼ぶ中国風を取り入れたからかどうかは分からないが、江という漢字が当てはめられるようになった。近江を散歩するということを広めたのは司馬遼太郎さんであろうが、どうも、歴史上二度の乱において負け側が近江を背にした側で、どうも陰気な水たまりのイメージが国民に広がってしまったが、それを少々払拭して頂いた気がする。先日も「サラダパン屋にも行きましたよ」とお声がけを頂いたのだが、それは嬉しいのだが、中身を知っている身としては少々恥ずかしい。

静寂と激動。何とも近々の鶴舞エリアのお話にも感じる。獅子が滅び猫が出てくるのかどうかは分からないが、じっくりと真剣に、10年後もあるのかということを考えねばならぬ。その昔、そんな名前があったなぁと回顧されるようで良いのか、世界の為の工学を誇りに思い、GDP向上に関わる勇壮な学生を輩出し続けるのか。群れていては立ち行かない。仲良しこよしは結局は容器に収まった楊枝のようなもので、一度、飛び出せば纏めようと思っても指に刺さるが関の山である。