やっぱり人

政治が時代を変えるというか、結局は人が政治を行うわけだから、人が時代と言うか、文化の在り様を変えるわけだ。一方で、歴史の厚みというか、集団の意志というか、その強さも感じる場もある。先日、鶴舞大学の同窓会に参加をさせて頂いたのだが、同窓の力と言うか、歴史と言うか、その熱を直に感じる機会を頂けた。歴史上の人物と言っては失礼に当たるが、ずっとずっとその昔からご尊顔を拝してきた方々が密度高くその場にいらっしゃる光景は、三十三間堂の仏の列を拝するようであった。

文化の在り様云々を語ったのは、同窓会のお話をしたかったわけでは無くて、がきんちょの頃にテレビで拝見した即身仏をリアルに拝して、その歴史を紐解かせて頂いたら、人の愚かさと言うか、命を粗末にするのはやはり人なのだなと実感したから。神・仏が絡んでくると、まぁ、信仰とお布施のお話が出てきて、そこに政治のお話も絡んでくるともう大変。天皇の神格化の為というか、幕藩体制崩壊の為というか、廃仏毀釈だったり、いわゆる講の廃止だったりと、明治の一桁年代ではいろんなことがこの国に起こったわけだ。

それまでの信仰を否定するだけではなく、生きたまま仏になられた方を侮辱したり見世物にしたり。新聞記事にまでして愚か者呼ばわりしたりと、まぁ、歴史を紐解くと情けないお話がごろごろと出てくる。まるでどっかの学長選のようなだと苦笑いである。愚者はどこまでも愚者であり、愚かな歴史は繰り返されるのだなと呆れたところで、文化の在り様云々を語ろうと思った次第である。まぁ、明治の時代だけではなく、信長さんもいろんな寺院を焼き払ったり崩壊させたりとしたわけだが、明治維新とは方向性が違うので、それは語らない。

歳を重ねたから感じるものがあるわけだが、同窓会という集団の力、そして方向性はこれからどうなっていくのだろうとも思った。若者が殆ど出席していない状況で、それは同窓会の意味を成しているのか?先輩後輩が繋がってこその同窓会と思うのだが、会場の雰囲気をネット配信しているわけでもなく、同窓会費を支払ったものの、それは何処にどのように使われていくのか、自分達が同窓であるという意味はどこにあるのか?人の想いの強さが同窓であることの意味であろうと、いろいろ考える松の内であった。