共通テストに思う

その呼び名は何度も変わってきましたが、共通テストが終了いたしましたな。問題を拝見すると、随分と毛色が変わってきたなと感じたりするわけだが、今年、大学に入学してくる方々は、このような問いかけに答えることが出来る人達なのだなと、問題文が気になったりする。丁寧な問いかけ文を拝見していると、このような講義を受けて高校生時代を過ごして来た方々なのだなと、様々に捉えることが出来る問いかけには答えてくれそうにない。言葉の定義をしっかりしないとと思ったりするわけだ。

日本の企業は何時まで4月一斉入社を貫くのか分からないのだが、必要な能力をきっちりと定義づけして頂いて、能力入社であって、どんな機能を獲得しているか、その瞬は5年間ですよみたいな入社試験をやって頂けると、社会に求められる機能を獲得できる大学を選んでいくのだろうし、それ以上の講義を展開していかない大学が淘汰されていくということになろう。大学は企業予備校では無いから、機能を提供するのではなく、機能を解釈し、今、求められる機能が将来どんな社会を創造することに役立つのかを考慮して、カリキュラムを動的に組んでいくことになる。

10年間、講義ノートを換えずに番所だけするとかね、そんな方々にはご退場と言うことになるのだろう。勿論、事務方も同様で、社会のニーズを先取りしていかないと、迷惑な連中と言うレッテルを貼られるだろう。電子マネーが使えないとか、紙とハンコが全てですなどと言う状況では「契約できません」と言われて、あっという間にオープンイノベーションのパートナー認定が落とされるだろう。自ら変わっていかねばならない。単に、どっかの大学に吸収されれば「変わったよ」と、学問の府は思うかもしれないが、社会はそうは捉えない。

東日本大災害の時、地球が活性な時期に入ったと、あの時、大学改革の草稿を書いていたわけだが、それがさらにエスカレートしてきていると感じる。世界中での火山の噴火が顕在化してきた事、太陽フレア活動もピーク期に入ってくることから、様々な自然の猛威に晒されていくことだろう。対処療法ではなく、しっかりと思考できる機能を若者に身に着けて頂くこと。日々の切磋琢磨を自らに課すことこそ、教壇の上に立つ者の姿であろう。そう感じている。