受験考

入試に拘るわけではないのだが、共通テストの後には志望校における本試験を受験することになる。広い思考能力というか、思考のダイバーシティというか、その様子を調査させて頂くのが共通テストとするならば、本試験はその大学において講義についていけるかどうかを自ら納得して欲しいというレベル感である。志望校を通じてどのような機能を身に着け、その機能によってどんな社会貢献をしているかをイメージで来ていれば、自ずと準備は出来ているだろう。それが前提である。

マスコミの言い様を拝見すると、来年から共通テストの在り様が大きく変化するから、浪人生活を避けたい者は、志望校をワンランク下げてトライするだろうということ。こんな話を見るにつけ、自らの社会で活躍している姿をイメージして、そこからバックキャスティングでどんな能力を身に着ける必要があるか、それを実現可能な大学は何処かが決定要因であるはずが、予備校での模擬試験の結果を判定基準に自らを図ってしまう。

大学受験の際になって、偏差値という受験産業の価格設定に振り回される。遅いのである。少なくとも小学生時代に自らの夢を描き、中学生時代において、その夢を高め、その実現の為に何を身に着けるべきかを思考し、それを実現するために高校を選択し、自らを研ぎ澄まし、無駄をそぎ落とし未来に獲得するべき機能を選択し、その獲得に向けて大学を選ぶ。その選択が成っているのであれば、全受験生に同様の条件であるのに、ワンランク下げるという、自らの夢を捨てる行為を選択する理由はさっぱり分からない。

世界の在り様の急激な変化を考えれば、身に着けるべき機能が得られない大学を選択することにどんな意味があるのか。先日、隣国の入試の状況をTVで拝見した。がむしゃらに学び続け、その結果が人生を決定するという。それも大いに愚かなシステムだが、それでも未来に夢を見られない仕組みの中で大学受験を迎えるよりはましであろう。他の者よりも努力したのだという納得は得られるだろう。しかし、大切なのは命と引き換えにどんな夢を見、そしてそれに挑んだかである。諦めは悪い方が良い。挑戦して欲しい。