内省ということを考えると、人材育成の出発点にこれがあるべきだと思うのだ。もっと言うと、内省の数だけ大学があるべきなのだろうけれど、一人のために、更に、その学生が博士課程まで進学したとしても9年間しか維持できない大学と言うのは経営的に成り立たないから、しょうがないから大くくりな学問体系を用意して、志望者を向かい入れることになる。それが今の大学ビジネスである。
ゲートビジネスとでも言うのだろう。ゲートを潜りたい人に「こんなゲートがありますよ」というゲートを用意しておくと、ゲートの出口を想定した顧客が手を挙げてくる。入場倍率が保てるゲートは幸せで、昨今、60%未満の占有率にも満たないゲートがあるようだが、こうなってくるとゲートの運営と言うか、管理がずさんになってしまう可能性がある。戦後の日本再興のための教育分担者として私立大学の協力を得てきたわけで、もうそのゲートの出口が無くなっていますよとなったとしても、もう閉じろとはなかなか言えない。
国が管理するゲートにおいても同様であるのだが、今のところ多くのゲート管理企業は、自らのゲートのあり様を根本から見直そうということには手を出さず、最長6年のゲート管理者の任期の間、なんとか凌いで次にバトンタッチしていく。美国の大統領が変わると貨幣価値ががくんと落ちる国において、そうならないための一つの手段として、ゲートの高度化があるのだろうが、資金難はいかんともしがたい。
社会人博士課程者を増やそうということは、ヨーロッパ諸国における企業人の対話が、博士取得が前提となっているから、その前提を満たすためにライセンスを売ろうというゲートを設けるということなのだが、ゲート価値というか、アウトカムズを生み出せる人材となってゲートを出しますよと約束できないといけないわけだ。アウトカムズ評価を苦手とする我が国の文化の中で、大学がゲートとして存置しきれるのだろうか。挑まねばならぬ。