必死に生きてきた人であればあるほど、他の人のために自らは犠牲を払うべきだと考えてしまう。いや、周囲の環境がそう考えさせて、ねっからまじめな人を追い込んでいくのだ。恐ろしいのは追い詰められた人の上司は、無意識に追い詰めているだけで、自らはホワイト上司で不健全な状況など何も考え無い。そんな上司に共鳴できる方も多く存在して、苦しい人はますます苦しんで自らを追い込んでいく。最後にはプッツンと切れることになる。
25歳まではひたすら学び、その学びを社会で知恵に変えて頂きながら、自らの目標とするステージを目指していく。ただ、当初思っていた仕事の質ではないなと感じているのであれば、それは自らを伸ばすことができていないということだ。即ち、辞め時である。やりがいということなのだと思うのだけれど、もう、この場において、自らが学ばせていただくことは無いなと感じるのであれば、それは場の変え時ということだ。
じっくりと考えてみて、その場に居ても自らを骨の髄まで活用して頂けていないなと、そんな空気感を感じるのであれば、そこから立ち去るしかないのだ。完璧主義というのではなく、燃えてこないというか、惰性で足がそこに向かっていると感じたならば、もう、そこはあなたの居場所では無い。仕事に穴をあけて周囲の人に迷惑をかけるから、辛くて仕方がないのだけれど我慢するべきだなどと考えてはいけない。
近年の大学のカリキュラムにはキャリアプランを考えるような、懇切丁寧すぎるプログラムが用意されていて、多少の辛さすら世の中には無いのだなんて教育が為されるわけなのだけれど、そんな訳は無いので、ぐっと我慢して次のステージが見える努力であれは成すべきだ。しかし、それが強いられた理不尽な我慢であるならば耐える必要など微塵もないのだ。自分に「犠牲を払え」と説き伏せる必要はない。心に棚を作って、そんな奴は閉じ込めて、いや、棚ごと捨ててしまって、次の場に向かうのがよろしい。そう思う。