いんちき禁止

秋空はいったい何処に行ってしまったんでしょうか?いきなり台風がやってきて週末は天空大賑わい。計画していた山行きは一週間後ろにスキップ。お陰で紅葉は進むかな?10月の台風というと、小生が高校生の時に来た、台風20号を思い出します。凄まじい台風で、最低気圧が870hPaという、妙に記憶に残っています。減圧下で瓶を空けて、締めたら、もう開かないのではないかというとんでもない減圧。今回の21号は数字を見ている限りそこまでの派手さはなさそうですが、それでも週末の台風では、選挙に行くのが面倒だなと、義務を放棄しちゃう人が沢山出てしまうかな?皆さん、選挙は行きましょうね。

さて、秋空に大雨は似合わないのは言うまでもないのですが、似合わないと思うのが、日本企業のインチキ三昧。必死に良いものを作ろうと頑張る企業が多いのに、ごく少数の巨大企業がインチキを続けるものだから、なんだか、日本ってそんな程度だったか?と悲しくなったり、気持ちを引き締めたり。神戸製鋼の材料強度評価の嘘なんてのは、素材の日本の印象を根底から破壊した、はっきり言ってテロである。電子デバイス用スパッタリングターゲットにまで波及して、タッチパネル素材なども日本のものは駄目だねというレッテルを、今後10年は世界に振りまいたのではないか?

日産にしろタカタにしろ、いい加減にしてくれと。ただ、足元を見れば他山の石では無く、パンドラの箱を開けたら出てくる出てくる。どうして今まで大学は回っていたのだろうかという地獄もびっくりの様に、てんやわんやであるのだが、開けたから悪は叩けるが閉じたままにしたらぬくぬくと悪は育つ。見えるようにすること。それが「切羽詰まらないようになる」唯一の方策だ。見えるところに立っていれば、風通し良く、悪は乾いてどっかに行ってしまう。そんなもんだ。

悪を干しきるまでが大変だ。巨悪であればあるほど病巣は深く大きい。日本を侵食した素材の病巣は、それが作り出す様々な商材に波及するが故に、その影響は計り知れない。突っ込んで考えると、そんなインチキをしてしまうことを許す人間を育てた環境が悪いのだ。大学はその諸悪の片棒を間違いなく担いでいる。その意識を失ってはならない。ゲームの様にリセットボタンは無い。隠れた必殺技も無い。ただただ、繊細に、そして単純と堂々と、これからも一歩一歩の私であります。

朝日

地下鉄の駅から地上にでて、数歩歩いたら突然目の前が明るくなった。この季節の楽しみは朝日を浴びることだ。夏真っ盛りの季節は朝日どころでは無いが、この季節だからこそ、太陽が有難い。真冬になると太陽に出会うことなく職場に着いて、そして宿舎に戻ってしまう。太陽と向かい合うのは今の季節かなぁと、しみじみと感じる。春も同様と思うだろうが、春は桜に眼が行って太陽を拝む気分になれない。

実際のところ、太陽からのエネルギーは凄まじくというか、太陽の熱と光のエネルギーが無ければ、我々生命は生まれなかったのではなかろうか?なかろうかと疑問符付きなのは、ひょっとしたら真っ暗闇の中でも生きている深海生物だって居るわけだから、眼の無い生き物として存在しているかもしれなかったからだ。断定はできないが、太陽は有難い。

光も影も太陽があったればこそ。絶対的な存在があることは有り難い。何が有難いって、それより偉大なものがないと思うと、なんだか安心するではないか。選挙の時だけ国民のふりをする政治家諸氏を拝む者もあるようだが、天に唾する者に一票を投じるなど愚の骨頂。しかしながら、国民として選挙には行かねばならないし、誰かに代表になって頂いて、国家を引っ張って頂かねばならぬ。

真夏でも真冬でも、晴れた空を見上げて思う。太陽は偉い。ぐわっとエネルギーを我々に与えてくれているのに、見返りをよこせとは決して言わない。どんなにエネルギーを与えても知らぬ顔。外連味も無い。気合入っているなと朝日を見上げて思う。そういう人に私はなりたい。

人類の退化

自動ドアは一定質量を超える物体がスイッチプレートに置かれると、なんらかの作用によって物体が存在していることを検知され、その結果、ドアが開く。雨風の中、壊れることなく動作し続けるこの仕組み、凄いと思う。PM2.5が襲ってこようが大雨、大雪だろうが、横綱が乗ろうが(見たことは無いが)、人が乗ると開くのだ。ちなみに秋田では(こればっかり)雪よけの覆いがあるのが主流だ。秋田の雪をなめてはいけないという話では無く、自動の話。

今のところ、自動と言えば運転だろう、たぶん。フォルクスワーゲン社の1充電800Km走行で、ハンドル、アクセル、何もないなんていうのは当たり前。道路の上の自由というビジョンを掲げた電気自動車かつ自動運転車。それをぱくったかなんだか知らないが、某社がアクセルやハンドルも無く、感情を理解する人工知能を乗せた電気自動車というコンセプトを今更ながら発表した。それを日本のマスコミは凄いことだと発表する。このあさましさ。なんとかならないものか?

電池がしょぼいから電気自動車はあり得ないと言っておきながら、いつの間にか、両刀使い。ガソリンを使って距離を稼ぐ。小生は間違っていないと思う。思うのだが、炭酸ガスやPM2.5を集団でまき散らすことを正しいとは言えない。気分次第で何処へでも行ける。荷物も運べる。こんな便利なものを人間は捨てないだろうなと思う。一方でチケットを買って椅子に座ったら、快適に運んでくれる電車というツールは、疑似的自動運転と言えないだろうか。経路も目的地も決まっているが、第ゼロ近似的自動運転車だ。

自動運転というか、インフラもそれに応じて変化しなければならない。自動車だけだとえらいこっちゃだが、街も人も変わっていけばよい。バーチャルではない、人が移動して出会う世界は大歓迎だ。自動運転だろうがなんだろうが、人と人が出会わなければならない。しかしながら、自動運転は人間の考え運動する機能を猛烈に減退させていく。自動運転車が街に溢れたら、カタツムリみたいな人間が徘徊するのだろうか?努力の末の自動運転車が人間を退化させると思うと、小生的にはドタ靴を履いて岩山を歩いているほうが幸せだなと思ってしまう、私であります。

食糧自給率に想う

衆議院議員選挙である。既に期日前投票が始まっているが、実質は次の日曜日である。投票に行かない国民だらけなのは情けない。少なくとも80%以上の投票率であれば何がどうなっても納得するしか無かろう。民主主義の根本を揺るがして平気な日本は、民主国家か?と疑念有之である。で、あんまり聞こえてこないが食糧自給率である。人・金・土地の三種の神器を支えるのが水を含む食糧であるが、今回はPPTが蚊帳の外だから何にも聞こえない。

秋田で減反補助金を無くすことが争点の一つになっていて(何で秋田を話題にするかは置いておいて)ある地域の農家はコメが安くて補助金が無くなると生きていけないから、その政策には反対を唱える。ある地域は自然肥料を使い、水が良く、米単価が高価であり、加えて、外食産業がやや右上がり気味だから勝負に出て、その政策に賛成を唱える。機械製造業者は減反もへったくれもないから、売れなければ首を吊り、売れれば明日まで生きられるという勝負を続けてきたが、農家だけがこんな議論を昭和40年台初頭から延々と続けている。

気になって農林水産省からの情報を眺めてみたら、米の歩留りが90%であり、10%は焼却というか、人も家畜も食べず、肥料にもなっていないことを知った。主食を粗末にしているなと実感する。更に言えばカロリーベースでは40%に満たない自給率だ。これで国家か?国民を全員食べさせることが出来ないのだ。輸入のために外交をやっていると言うだろうが、世界的天候不順になって世界で飢饉が発生したとして、どの国が日本に食糧援助をしてくれるというのだろう?享保の飢饉では3000万の人口に対し約1000万人が餓死したのだ。今なら4000万人が我が国で餓死する勘定だ。これを政治家候補は語らない。

一方で、心ある若者が八ヶ岳山麓で広大な農地において株式会社農業を開始して、自給率向上を目指し始めたというニュースを先年聞いた。確かに為政者はベクトルを示せば良いわけで、具体的な法律、行動は官僚と国民の務めとも言えるが、こと食糧自給に関してはそのベクトルも示さない。地球温暖化に世界の農業事情が付いていかず、穀物類が不作続きだ。人口の増加は世界ではまだ続く。アスファルトの道路は食べられないし、電信柱も同様だ。まず食って眠れる。人間の基本に立ち返り、お互いに助け合って生きていくという縄文時代からの日本文化を見直しては如何かと、まずは一歩立ち止まって足元を固めようと切に願う私であります。

金木犀

国産GPS衛星みちびきが漸く4号機体制となった。赤道直上の静止軌道上の一機と天頂を巡る3機とで、やっとこさっとこ、日本人が日本の国土上の物体を即位できるようになった。伊能忠敬が僅か17年で歩いて国土を表したのに対し、米国頼みの風潮からか、なかなか進まなかった国土測量である。国家が国土を即位出来ずに何が国家か!と、きな臭いことは抜きにして、連日の山ネタで恐縮だが、GPSフリークとしては大変に嬉しいことである。まずは目出度い。

GPS測量は既に米国軍事衛星を使って、栃木にあるもてぎサーキット造成など、数多くの場所で用いられている。広大な農地を無人で動くトラクターもGPS制御である。サテライトクルージング走行というと、なんだか妙に格好良いが、要するに米国軍事衛星に日本がどのレベルの技術を持っているのか丸裸でデータを提供し、逆に感謝しながら国土開発をしている現状だ。某社のスマートフォンにも同様のGPSチップが入っているから、どんな人口変動が生じているかまで監視されているのが現状である。それが日本人に監視されるようになるだけなのだが、まぁ、少しはマシと思うことにしよう。

GPS端末は様々製品が出ていて、有名なのが米国ガーミン社のものだろう。米国の兵隊の方々が戦地に赴くときに自ら買って行くというのは有名な話だ。万が一、一人、砂漠に残されても、生きて帰ることが出来る可能性が格段に上がる。名工大の古墳の周りを歩けば、明確に円を描いてくれる。一般民間人モデルではここまでは難しいかもしれないが、山歩きをして、出発点に戻るという点において、確実な働きをしてくれる。仮に迷子になっても地形図を入れていれば、確実にピークを確認でき、尾根を外すことなく生きて帰ることが出来る。

季節が突然に秋になった。心地よさに釣られて桜山から歩いてみると、どこからともなく金木犀の香りが漂う。スマートフォンの地図もそうだが、今現在、何処に居るのか、基本的な情報を入手できると安心する。折角、一機300億円も掛けて情報を地上に届けてくれるGPS衛星である。それを活用するサービスをどんどん社会に提供していきたい。単に登山客を喜ばせるだけではなく、様々な価値が生まれてくるはずである。伊能忠敬一行が命を懸けて創り上げた大日本地図。北九州小倉から一歩を踏み出す時の、その思いを改めて聞いてみたい、金木犀の香りの中、天を見上げてしみじみ想った私であります。

趣味考

何時の頃からか山歩きが趣味である。独り、岩峰に佇み蒼き山並みを見渡すと、自分のちっぽけさと地球の偉大さを感じ取ることが出来る。迷ったり、滑落したり、やめとけば良かったと何度も何度も思ったものだが、未だに地形図を見ては「この尾根に行こう」と思ってしまうのだから病に近い。趣味とは病と健康の狭間にあるのだろうが、病から健康との境界に漸近していく、そんな場所にあると思っている。だから直らない。辞めてしまったとしたら、それは趣味では無かったということだ。

小生の場合、基本は単独行である。加藤文太郎氏を真似ているわけではない。とても真似られない。日本の単独行者の著名人は先の加藤氏と植村直己氏だが、共に山に消えていった。これはいけない。何が何でも平地に戻ってこなければならない。しかし、自然は人間如きの計画などお構いなしだ。ただただ冷徹に行動してくる。自然には何をやっても勝てない。勝てないのに自分の計画は満点だと思う。それが過信だ。臆病であり、謙虚である。それが山に分け入る際に唯一許される考えだ。

しかし、これからの季節、彩鮮やかな森林、そして澄み渡る空。名工大の校舎の上層階からは南方向を除けば山また山なのである。さっさと御出でと手招きしてくれている。出かけない手は無いだろう。山で自らを客観視するのであれば単独行でなければならない。しかし、修行僧になる必要が無いのであれば、友人と連れ立って、バーナーとコッヘルでお茶をするのが望ましい。調理は更に良い。例えインスタントの味噌汁であっても、アルプスを眺め暖かい汁ものが体に入るその瞬間の空気感は何物にも代えがたい。

名古屋はアルプス群の入り口にあたり、その最も南の外れが大川入山である。国道153号線を進んでいけば入山口に直ぐにつく。美しい波打つ笹の中を道は進み、紺碧の空に緑が映え陽は注ぎ、アルプスを歩いていることを忘れてしまう程だ。山は良い。自らの身体だけが頼りである。嘘を付く必要が無い。全て自らに跳ね返る。そんな経験が無いと、不正をしたくなるのだろう。「適当で良いや」という考え方は限界を見たことの無い、卑怯者の生き方だ。臆病と卑怯とはまるで違う。臆病で良い。一歩、進めるから。

太陽力

3.11の少し前に、太陽活動が活発化して、地球周辺のイオンの流れ密度が高くなった。地球の内部というか核周辺は金属が流れている状態になっているので、イオンの流れ、即ち、地球の周りに電流が流れたら、金属の核運動が活発化して、どえらいことがこなきゃいいがと思っていたら、人間にとって凄まじいことが発生した。宇宙的にはまったくもって普通の現象なのだが、人類という後から来た生命にとってはとんでもないことであった。宇宙の活動に比べれば人類の営みなど、些細なことということだ。

人類が突然消えてしまったらという番組を見たが、実際のところ、チェルノブイリ地区は立ち入り禁止で、人が消えた都市がどうなるかを実証している。30年足らずで緑豊かで野生動物が闊歩する自然が復活する。それを見ると人間とは如何に我儘で自然環境を破壊する悪の枢軸であると感じる。その人間が、これまた自我をむき出しにして自分だけが正しいと大騒ぎする。更には徒党を組んで納得不能な我儘を他に押し付ける。ホモサピエンスが46億年の進化の後に獲得した議論というツールはどこかに行ってしまっている。

大声が正しいと受け止められるのであれば、オペラ歌手が人類を先導すればよい。いや、扇動と言うべきか。むしろそのほうが愛あり夢ありで、皆、笑顔で過ごせるのかもしれない。一人の大声では無く、マスコミの大声になると太陽のくしゃみ同様、世界がでんぐり返る。人類とはそのように弱いものだなとしみじみ思う。それ故に、自らが判断できる能力が必要だし、納得というお互いの了解が日々重要と感じる。気を長くというのはそのようなことだろう。

霧島山の噴火は、昨年来の兆候の結果であり、なるほど、マグマが地上に噴き出すのだからそれなりの兆候があってもおかしくなかろう。兆候があったのであれば、何らかの対策があるのかもしれないが、地球規模のくしゃみであるから、逃げる以外に方策はない。いや、そこに人間が存在すること自体が間違っているということだ。巨大な堤防など、人類のエゴに過ぎない。地球を痛めつけることなしに、皆が笑顔で過ごせる方策は無いものか?みんな笑顔で居たいのにと思うのに、なんで、悩みごとばかりがやってくるのかなと、太陽はどんなにエネルギーを人類に与えても、代償を求めたりしないのになぁと、あんなふうにおおらかにでっかく生きられたらなぁと、しみじみ思う私であります。

前線

北海道に梅雨が来たような、そんな気圧配置で、妙な位置に明確な前線が出来たものだと、地球気候変動もいよいよ進んできたなと天気図を眺める。先週末位から暖気・寒気が明確にぶつかり合い、北方大陸上に長大な前線が発生した。夏の北極海の氷が減り、寒気の発生源が減ると、寒気の渦流が弱まることで、元来、北極上空にパッケージされる寒気が低緯度地方に噴出してくる。この季節は太平洋上の暖気はまだまだ元気だから、南下した寒気と太平洋の暖気がぶつかって、北海道に梅雨もどきをもたらす前線が出来た。地球温暖化の進行を示す一つの指標となろう。

暖気が元気な時に寒気が低緯度地方に降りてくると、朝が寒く昼が暖かい、紅葉にはもってこいの気象条件となる。行楽は行くのが楽しいのか、楽しみに行くのか、語源は知らないが、楽しい雰囲気の単語であることは間違いない。小生もその昔は単独行で山で紅葉、春の花を楽しんだ野人だが、最近は土日なくプレゼン資料などを作っているので、体がなまるばかり。今年は日帰りでどこかに出掛けようかなと、あるいは誰かに引っ張り出されるかもしれない秋を迎えている。なんとなれば紅葉の一つにも出会いたいものだ。

中部地域には木曽駒ケ岳もあり、ロープウェイで一気に天空に連れて行ってくれるサービス満載の山もあり、テントを担いで修行僧になる必要も無く紅葉と秋の星空を楽しむことが出来る。ただ、この秋の星空を狙おうと思うと、これは暖気の山ではしょぼくて、寒さ対策をしながらの、寒気の山の上が宜しい。だから天気図が気になるし、前線が降りきって山頂が寒気に包まれ冷却されきった後が、夜が晴れ渡り、異空間を形成してくれる時を待つ。

海には海の楽しさがあるが、山には山の楽しさがある。人それぞれの楽しみがあり、それを謳歌する人生が宜しい。過労で死ぬような社会や組織は明らかに間違っている。過労はいかんが、人のために頑張る気になる働き方をしたい。それの反動で単独行を続ける。静まり返る冴えた空気の中、独り呼吸の音を聞き、木々のささやきと対話して深山を歩き回った自らの青春が、少し羨ましく思えてきた私であります。

言語

20年も前のお話だが、全国の工科系学科をネットワークで結んで、特色ある講義を相互に受講して、工科系学科のレベルを高め続けようという試みがあった。当時の副学長先生に呼び出され、「お前、東大で開催される委員会に行ってNoと言ってこい」と厳命され、お偉い先生方を前にして「本校はNoです」と言った頃から人生がねじ曲がっていったような気がする。その後、議論を経て約10年それは継続され、何故だかその幕引きも任された。ネットワーク大学が有効に機能していたのがスペインバルセロナ自治大学であった。

EUの波に飲み込まれ、教育格差が大きかったカタラン地方において、郵便局のネットワークを教育用に開放し、郵便局で講義が行われ、地方と都市部の学力格差を一気に無くした。格差が無くなったのはサービスも良かったのだろうが独裁によって虐げられ、それをなんとか跳ね飛ばそうと、民族独立に向かって戦い続ける気概そのものが主要因だろう。ネットワーク大学においてはカタラン語(スペイン語では無く、スペイン人でも分からないと言うところが多い)を使うことが出来れば無料ということに、日本代表使節員の一員として驚かされた。民族と言語。言語こそ文化そのものだと認識した。

我が国を顧みるとNHKを中核として標準語を展開しているが、地方に行けば今でも「何を言っていらっしゃる?」と相槌を打つしか無い状況が多々ある。それで良いのである。独自の文化を持つ地域ほど強いのだ。文章に起こすときに「はんでめためたごっちょうでごいす」と書かれても訳が分からないが、共通の国家的文章、言語力が明確にあって、それを使いあえばそれで良い。NHKの存在価値はそんなところにあるのだろうと思っている。

フランコ統領の時代にはカタラン語の教育も出版も禁止され、正に文化を封印されたカタラン(テレビ的にはカタルーニャ)地方であり、1977年9月に漸く文化を取り戻した。スペイン語に似ていると言えば似ているが、「おはよう」がスペイン語でブエノスディアス、それがカタラン語でボンディーア。スペイン語しか勉強していかなかったので「???」の連発で、タクシーに乗った時のパニックは凄まじい。日本のメディアはカタラン地方の独立云々を語るが、文化を抑圧された民がそれを正当に取り戻す運動であることを語らない。元来が独立していたのだ。国家の問題であるからこれ以上は立ち入れないが、自治大学で教鞭を取られる方々の熱意を肌で感じた小生は収まるところに収まるのだろうと思っている。同じ言葉で結ばれた民族。それこそが700万年を生き抜いた人類の証であると考える私であります。

狭山工場閉鎖

自動車小僧だった小生としてはホンダ狭山工場の閉鎖は実に寂しい思いがある。可変式トランペット、超高回転高トルク、乗り手が追従できれば、0発進からトルクリッチに立ち上がり、コーナー出入口で等速度運動を可能にする。そんな機械が国内で作られなくなっていく。いや、世界においてもモーターと電源、勿論コンピュータに支えられていく。ホンダだけではあるまい。今後、トランスミッションなど、電動化されたらほぼ要らない機械を作っている工場は閉鎖していくだろう。

日本経済の牽引車はインフラ工事と自動車だ。機械産業という点においては建設部材を除けば、ほぼほぼ自動車だ。小松製作所などが活用する大型建設機械は今後も要求され続けていくだろうが、一般民間人向け乗用車とは数において桁が違い過ぎる。雇用を生み出す原動力とはならない。部品点数がガソリンエンジン車と比べて圧倒的に少ないEVは、現在の自動車産業に関わる人員数を10分の1以下に減らすだろう。

マニアの方々はガソリンエンジンのフィーリング云々を語るが、EVに試乗した感覚では実に面白いと感じた。また自動車小僧に戻りそうだ。アクセル応答性は明らかに高い。そしてそれは車載用コンピュータの発展でもっと増していくだろう。EV用モーターというか、モーター開発という古くて新しい技術のエンジニアを増やしていかないと立ち行かない。そしてそれを駆動する回路、そして制御するコンピュータにはまだまだ参入の余地どころか未開の地だ。

それらがどれだけの人員を吸収できるか分からないが、携帯電話に車輪がくっついたような世界をイメージするには、要素技術から機械を考える頭の人間よりも、社会はこうなって欲しいと願い、そこから必要な技術を「こんなのが必要じゃないの?」とイメージ出来る頭の人間が必要だ。自動車ばかりではない。全ての分野で同様だ。高齢者医療関係の研究も同様で、高齢者に寄り添い過ぎると木を見て森を見ず、我が国の安定に寄与できる研究開発に繋がっていかない。夢を語れる素人の時代、そんな時代がやってきたなとホンダ工場閉鎖に思う私であります。