学びの拒否は

経産省や文科省は社会人リスキリングの為に大学はなんとかしろ!と叫ぶのだが、企業側が、社員が教育にうつつを抜かして勉強することを良しとしない現状で、場を創っても人が集まらないのは間違いない。企業へのアンケートをどれだけの数を撒いて回収できたのかは分からないが、自社社員をリスキリング・リカレントの為に大学に送り込む仕組みを社内に作っているかと言う問いかけに対して、10%程度の企業のみが学ぶことを良しとしているということが解った。

となると、必死になってプログラムを構築しても、余程、社会に刺さるプログラムで無いと参画しては頂けないということ。特にAI活用関係など、本来は現場にこそ活用の場があるAIなのだが、それを活用する学びをさせる余裕が無いと中小企業諸氏にバッサリとやられたわけだ。AIでどんな価値を抽出するのかという事なのだが、大略、加工用の刃物が駄目になる前に教えて欲しいとか、人の置き換えを目指すと「学ばせる暇が合ったらその人を現場に立たせる」ということになる。

不具合発生防止ということを人にやらせるということほど無駄な行為は無い。これこそ給与の無駄払いで、AIやロボットにやらせるべき案件である。労働人口が減っていくので海外の方々にお越し頂こうということなのだが、お越しを頂いて、そんなしょぼいお仕事を任せてはいけない。日本に行ったら有り得ない程の高度な学びが出来たと、帰国の際に知恵のお土産を持って帰って頂かないと、国家間が仲良くなれない。

ノウハウなどもどんどん吐き出して、自分達は新たなモノづくりに挑戦すれば良い。その為には人のカンコツ、ノウハウをどんどこ機械に受け持ってもらって、それを活用すれば良い。ベテランはカンコツを奪われたら解雇されると技を出したがらないが、モノづくりの様式ががらりと変わればポジションなどあっと言う間に要らなくなる。浪花節で国が動いているのは何時までか?大学で学んだことの「旬」はどんどん短くなっている。人に学ばせぬ企業には明日は無い。そう思う。

値上げ

じわじわといろんなものが値上がり続けているので、またかと思うだけなのだが、10月に入って、届け出が出されている品目だけで2911品の希望小売価格が上昇するとの事。今年の4月期では2897品目だったということで、それよりも多くの品目が値上がりした勘定になる。夏前から叫ばれていたカカオ豆の収穫量が激減したことで、それを出発原料とする商材は軒並み単科が上がる。そんなにバクバクと食するものでは無いのだが、チョコレートの類が幻に成る日も遠く無いのかもしれない。

東南海地震が来る来る騒動のお陰で、市場から消えたお米なのだが、11月以降に成ると、パックご飯も落ち着いてくるというお話だ。こればっかりはその時になってみないと分からない。災害は忘れない内にやってくるというのが世界の相場になってきたので、台風の本格シーズンが明けたと言っても、まだまだ強烈にやってきそうな大嵐である。油断は禁物で、キャンプ用品などのチェックを怠らないようにしなければと思っている。

猛暑の夏の影響で、マーケットにおける野菜の価格が落ちてこないなと実感している。勿論、人件費、輸送費の高騰も関係しているのだが、世界中で猛暑と災害で、食糧の確保が相当に困難になっているのではと危惧している。肥料や飼料を含めると、食糧自給率が10%くらいしか無いこの国において、地球規模での俯瞰力が無ければ生きていけないのは当然の事。インバウンドだなどと、比較貨幣価値が高い人達に、自国民が食せない価格でサービスをして儲けていらっしゃる業界の皆様は、コロナ禍での赤字を取り戻そうということなのだろうけれど、飢えた国民の目は恐ろしいことを忘れてはならない。

先日、マーケットで「曲がりもの」としてパッケージされている胡瓜を購入した。3割程低価格に設定されているのだが、農家諸氏にしてみれば、重さが変わるわけでは無く、輸送労力や箱詰めの大変さを考えると、安売りする必要など何も無いと感じるのだ。成長までにどれだけの水分を確保されたのか、この夏の雨不足を思うと申し訳なくなってくる。値上げの分、サラリーが上がるわけでは無いから、何かを削らねばならぬ。この国では命を削らないといけないのかもしれない。そんな気がする。

差別化せよ

大学で学び、卒業し、企業を通じて社会貢献を行う。その社会貢献の程度が、社会の求める要求に達していないと判断したら、当然のことながらその時点で最良の機能を与えてくれるであろう大学を認識し、再度入学して学び直すことになる筈だ。忙しいからとか、人手が足りないという言い訳の下、学びを放棄した状態で企業経営を続けていれば、当然のこととして、売り上げ激減、倒産まっしぐらである。美味しいエサに、猫まっしぐらなどと喜んでいる場合ではない。

この手のお話を身内としていると「そもそも、現状の経営者の殆どが、大学で『自らは何を社会に対して機能を発揮できるようになったのか』が意識できないから、大学は遊び場だと思ってしまって、大学の学びに不信感を抱いているから」というところに帰結する。小生はガマの油売り大学で徹底的に鍛えられたからそんな意識は微塵も無いのだが、そんなお話が出てくるということは、そんな経験をしていらっしゃるのですねと、少々寂しい気持ちになるのだ。

失われた30年とか40年とか、なんだか被害者みたいな表現をするのだが、それって、自らが学びを放棄しただけでしょと言いたいのだ。何故なら世界は、決して失われていないからだ。相対的に国力が下がったということは、下がっていない国が沢山あるということだ。そのような学びを自らに課し、歯を食いしばり血を滲ませなかった者が何を言うか!と怒鳴りつけたくなるが、無駄だからやらない。

かれこれ25年ほど前に米国の大学に訪れた際に、壁に貼られたポスターに「アントレプレナーシップ!」(当然英語であるが)と書かれているのを拝見して「なんじゃこりゃ?」となったわけだが、単なる起業家精神という事では無く、自らを他者から差別化せよ!というエールだと、その大学の先生からお伺いして、それなら自分はアントレプレナーシップを有していると言ったら「お前はネオジャパネスクだ」と、その通りだと言われ、安心して帰国した。未だにアントレプレナーシップは日本人に醸成されない。大学遊園地を経験した経営者は絶滅するのは何時だろう?それまで国は保てるのか?恐ろしい。