羽田の近所に居た時、流石のゼロメートル地帯だけあって、大雨イコール洪水であった。河川を掛け替え、長大な堤防と下水の完備によって、1970年過ぎにはほぼ洪水に出会わなくなった。今、日本を襲う洪水などと生やさしい表現では意味を成さない自然災害を見て、この国大丈夫かと感じる。
角栄さんが言っていた日本列島改造ってこんなしょぼいものでは無かったと思うのだ。国民に生活的にも経済的にも安心と安全を与えるものだったはずだ。安心の無い国家は最早国家とは言えない。一体、何処に税金が消えていっているのか?
安心は全ての政治の根幹である。安心と安全を混同して使う方が多いが、これは明確に異なる。安心は前提である。安全は作り込む「出来事」である。まるで次元が違う。その点において、安心の無くなったこの国の行く末は極めて暗いと言わざるをえまい。
不安に満ちた毎日は辛い。辛いどころか生きる気力すら無くなる。不安を安心に塗り替えていく。環境の役割である。一つ一つということだが、町全体が土砂に飲まれる環境を作り続けてきたのが我が国家である。経済優先で安心は置いてきぼりであった。これからもきっとそれを選択するのだろう。さみしい限りだ。