新年

毎年年初に思うのだけれども、世界のサイエンスの劇的な進化が加速していて、既にbeyond AIなどという単語が当たり前に出てきている。学者は形式化、数式化が大好きなのだけれど、AIはそんなものは必要としない。決定か確率か、そのような判断基準で生きてきたのだけれど、要素要素で決定しないことが実は生命の根源であって、だからこそ人は人を認め尊敬することが出来、お互いが自律的に活動できる社会になるのではないか。

組織運営から考えると、ミクロな決定がマクロな結果を生み出しているのだけれど、人間という視野が極めて狭い生命体の活動組織だからこそ成立してきた社会規律の方法論であったのではないのか。予測範囲を超えた結果が出てくると不快感を露わにするのだが、構築するべき社会の方向性は、結論を持っているものでは決してなくて、むしろ自在に進化発展していくものであろう。人同士の相互作用が生じた結果どうなるということではなく、既に全く関係のない働きかけも受容するべき社会の巨大さになっているのであって、如何に巨大な視野をイメージ出来るかが、beyond AIということなのかもしれない。

古い脳みそだから時間の概念を持ってしまうのだが、予測という点において、極めて狭い判断基準で次の瞬間を考えてしまうのだが、ビッグバンが生じ150億年の経過の後の世界に生きている地球人と、水素とヘリウムしか知らない知能が出会ったとすると、実は案外、複雑な予測を可能と出来るのは、時間が止まってしまったような宇宙の生命ではないのか。複雑な状況で一つ一つの結論がないと前に進めない人類は、自ら時間を停止させていて、時間と思考とがリンクしていない狭い世界に自らを貶めているのではないか。

年頭に、年末にはこんな反省をしている一年にしようとは思うのだが、その反省そのものがイメージ出来ている時点で既に視野が狭く、狭いからこそ無関係と判断してしまう相関性を打ち破って、思考そのものが細胞分裂の如く分身をカオスを持って発展し膨大な空間を持って、その視野において学習をしなければならないのだろうなと思った次第。だから今年からは「努力する」以外のことは言わないことにしよう。そんな松の内の働き初めである。