多摩川と利根川に挟まれた籠城の地の特別性は、家康公の時代から全く変わらない。どんな理不尽もまかり通る魔界の地である。全てが許される。伊勢のアマテラスの時代から一子相伝のみが正しくて、新規参入は認めない。それが当たり前の社会構造でずっと来た我が国であるが、漸く、インターネットという世界共通言語に晒されて、ニュータイプが籠城を破るのかなと、ちょっと楽しみなのである。
何も、逆切れして他人を刺し殺すことを良しとするのでは無い。それは言語道断というだけである。そうではなくて、闇の中で決まることは極めて狭い視野の基に行われていることであって、人類として考えると異質であるということだ。一方で、その危険性もあると考えている。同じ言葉を使う民が、いがみ合い憎しみあう、戦国時代に逆戻りの恐れもある。
地球が一つの平和のベクトルを持てば良いのだが、寒い国から灼熱の国まで様々あって、真水が豊富か塩水だらけか、もう、生きているその基盤がまるで異なる人々が、同じ価値を「この瞬間に持て!」というのはかなり厳しい。小さな社会においておやである。結局のところ籠城の基軸が各人の心にあるところからが平和な思考の出発点であるということだ。
そうなんだけど、それを言い出すと、100億のストーリーが必要であり、口調が激しい人の言い分だけがまかり通るようになって、いじめが正当化され、それを見て見ぬふりをする社会になってしまう。心の籠城こそ人類の本質であって、発展など無さそうに感じる。そんな時だから、ゼロから始めなければならないのだ。明るさを恐れず、暗い中で立ち上がることが本質なのだ。籠城を思ってそう感じた。