御嶽山駅まで

だらだらと進むと言うと、新型車両に怒られてしまうが、何しろぐにゃぐにゃと曲がりながら、家々を縫って地上を進む線路だから仕方がない。今昔マップによれば(こればっかり)1927年~1939年の間には既に五反田まで線路が伸びている。それだけ住宅が広がっていたということだろう。明治の御代の東京の発展がこんなところにも見受けられるわけだ。池上電気鉄道と、最初から電気と名前に着いているところが、電気を街に、そして家庭に引いていくというエネルギー大量輸送と消費時代が始まっていることがわかる。

多摩川との間には目蒲線も走っていて、池上の隣の千鳥町駅の近くには目蒲線下丸子駅もあり、この時代の街の発展が窺われる。この下丸子には蓮光院という、新田家にまつわるお寺があるのだが、そこに武家屋敷門が移築され、大名屋敷の雰囲気を醸し出している。5万石程度の武家屋敷門は案外残っておらず、貴重な遺構と眺めに行った記憶がある。乗降客は多く、驚かされる。千鳥町には徳川家康が、国分寺崖線以南の、今の大田区に田畑を作るために作らせた六郷用水跡地がある。再現された用水路があり、緩やかな流れが土地の平坦さを表しているなと、江戸の人口爆発を支えるには、やはり、地元で食料生産が必須であると考えた為政者の正しさを物語る。人が減るなら海の外からと短絡するリーダーとはえらい違いだ。

珍しい直線区間を過ぎると久が原駅に着く。久が原とは延々と森林が続く「木の原」の意味だそうで、江戸時代から久ケ原と呼ばれていたそうだ。久が原には申し訳ないのだが、何の思い出も無い。車窓を真剣に眺めてみたのだが、ただただ民家の間を縫っていくばかりである。こんな書き方をすると民家の森に鉄道を通した様に思われるかもしれないが、真逆である。民家が線路に迫ってきただけなのだ。久が原を出ると東海道新幹線を跨ぐ御嶽山駅に着く。

御嶽山と言えば研究室的には木曽福島駅という事になってしまうのだが、東京で御嶽山と言えばこの地になる。御嶽山の駅の南には御嶽山信仰拠点である御嶽神社がある。この地から御嶽山が見えたとは思えないので、調べてみると、江戸時代に御岳山信仰が流行り、その流れで寄進された社殿がどんどんと成長したものらしい。その拠点として駅名にもなっているようだ。人の想いが地名になり、そして駅名になって残っていくというのは素晴らしい。この駅は新幹線から見るとガードになっているのだが、新幹線でぐぐぐっとコーナーを曲がり、多摩川を超え目蒲線を超え、次のガードがこの場所なので、毎週のように眺めている。新幹線の線路を上から見る楽しさを味わった、これも旅情である。