久しぶりに電力を想う

満員のぎゅうぎゅうに圧縮された電車内で辟易しながら都内を移動するわけだが、ふと、線路と生活空間との境界線を眺めると、そこには無限とも思える量の電線が走る。がきんちょの頃に山手線は水力で動いているという話を聞き、そんなことがあるのかいなと調べてみたところ、新潟信濃川で発電をして、えっちらこと東京まで電気を運んで山手線を動かしたとのこと。川と聞いたので、ゆっくり流れる河川でどうやって巨大な発電機を回すのだろうと、その頃は真剣に思ってしまったのがだ、実際のところは貯水池を作ってそこから落とすという、所謂、立派な水力発電所ということだ。

不正取水事件などもありはあったが、発電量は大きく、JR東日本管轄内の新幹線などにもその一部を送電している。日本海側から首都圏まで電気を送るという、考えてみれば抵抗のある金属線で電力を運ぶのだから、その時点で相当の無駄がある。電気炬燵や電気ストーブなどのコードが熱を持っていると感じた人も居るとは思うが、空中配線とて同様である。電気は運ぶだけでエネルギーの損失を生むのだ。運べば運ぶほど無駄が出来る。

水力発電はクリーンなエネルギーで、水源がしっかりしているのであればどんどんやれば良いとは思うが、山を切り開き人が住んでいた渓谷を水没させてまで過去の計画のダムを意地で造る政治はどうなのだろうと感じるところがある。一方で、電気を使うところがある限りは、やはりクリーンで再生可能なエネルギー源ということであれば、正に電池である水力発電はもっと見直されるべきだ。

水にちょっかいを出すと直ぐにおっかない方々がやってきて「俺の水をどうしてくれるんだ」となってしまうわけだが、河川の水量を変化させないのであれば、天が与えてくれた無償のエネルギー源の使い方としてはとても優れていると思う訳だ。以前から言ってはいるが、愛知用水などは知多半島にひたすら水を送っているだけであって、あれだけの資源を使わずにほったらかすという発想はどこから来るのだろうか。脱石油の意味合いは単に温暖化だけではない。プラスチックだって元は石油だし、それらが地球をどれだけ汚しているか。便利の為の電気だが、ちょこっとその在り方を考えてみたい。