生きていくために何が必要だなんて大袈裟なことを考えたことがあるのだが、便利ツールで「これがあった方が良い」というものには電気を活用するものはなかった。トイレだとかナイフだとか、そんなものが出てくる程度であって、携帯電話などは要らないし、パソコンなんで『戯言(たわごとと読みます、ざれごとぢゃないよ』を書いているくらいなもんで(ちょっと嘘)、野生の人間としてはそんなものは要らないのだ。
家具は家を縛り、家は人を縛ると言いますが、電気こそ人を根こそぎしばりまくっているわけだ。歩いて生活する範囲で「生きていく」ことが出来れば、自動車も電気も要らないのだ。極論であることは重々承知である。しかし、今の時代に欲しいのは小生としては「極論」なのである。極論が無いからビジョンが描けないのである。この無責任時代において、何故、極論における討論・議論が為されないのか?さみしい限りである。
生活必須モノにおいて電気に頼り切っている生き方こそ、贅沢怠惰な動物の在り方であって、恐らくは絶滅の始まりでは無かろうか?恐竜は何故絶滅したのかという議論において、必ず出てくるのが隕石落下による気候変動、その時代に発生したシベリアの地溝変動である。確かに大陸の縁からプレートがマントルに落下して、その反動でマグマがシベリアを突き破って、地上の炭酸ガスが増えたとかなんだとか。まぁ色々言われていますけど、近年の研究結果が恐ろしい。
数万年、恐竜という覇者において、強者が他者を駆逐し、その駆逐こそ種の単色化であり、それが故にその種が死滅するという、多様性の無い社会の絶滅化というエントロピーの最小化を神が好まないという自然の摂理で絶滅したわけである。人類だって様々な類人猿から残ったものであって、恐竜の世界からすると既に絶滅している状況にあるはずなのだ。しかし生きているということは智慧によって絶滅を回避しているということだ。その回避手法が便利グッズの電力利用だとするならば、生きるための大地そのものを破壊しながら生きているということであって、智慧の片鱗すら感じられない、情けない状況である。