焼却は正しいのか?

「想い出はいつかゴミになる」というのはある人物の名言だが、物理的に視覚に捉えられるものをゴミと考えるのが良かろう。ペン立てや引き出しには、所謂ノベルティと呼ばれる類のゴミが林立、おしくらまんじゅう状態になっている。袋から出してもいない立派なゴミが存在している。ペンならば使う気になれば使えるのだが、恐らく、生きている間に全てのインクを使い切ることは絶対に無いと断言できる。これはゴミだ。

筆記用具をゴミと呼ぶとは何事だということなのだが、正直、使わないものは空間を塞いでいるゴミ以外の何物では無いだろう。利用されないものが空間を占めている場合、それは在庫かゴミである。ゴミは捨ててしまえば良いというのは間違った考えであって、元来、捨てる物はあってはならないだろう。それが石油から生じたプラスチックならなおさらだ。生物資源と言うべき石油への侮辱と捉えるべきだ。

ボールペン、CD、電卓、おもちゃなどは名古屋市においては可燃ごみである。可燃というからには燃やして炭酸ガスにしてしまうということだ。リサイクルするのかとおもいきや、燃やして無くしてしまう暴挙に出るのだ。この暴挙を「何となく」市民に納得させているのが廃棄物発電である。東京都などでは随分と前から進めていて、埋め立て地が無くなったからには燃やしてしまえということで、環状八号線を用賀ICから北上すると巨大な煙突が見えてくるが、それが代表格である。燃やして発電、熱は温水プール等で活用というハイブリッド型だ。ちなみに我が国初の廃棄物発電施設は大阪に建設されたもので、1965年に開始されている。

臨海地域の再開発を可能にしたのは、このゴミ焼却型発電機の登場によると言っても過言では無かろう。兎に角、片っ端から燃やして燃焼温度を上げていく。不要なものを燃やすのだから優れたシステムという解釈なのだが、そもそも不要なものを作るってどうだろう。大事に使っていた道具がすり減って、やむを得ずという事では無いのだ。人間の勝手な都合で資源を消費して、あまつさえ燃やして消滅させる。人類は己惚れた生き物である。