取り残される日本

週末にマーケットに出掛けるわけだが、野菜などは極力「裸売り」している店を選んで購入している。新鮮かどうか一目でわかるし、何しろ不要なゴミを出さなくて良い。昭和40年代前半にあっては、籐の買い物かごなどは何処の家庭にもあって、店頭には卵が山と積まれて1個買いをしたもんだ。それがあっという間に現状の様にビニールパック、プラスチックパックに化けていった。

街のパンやさんでは焼きたてのパンを紙袋に入れて売っていたし、豆腐屋などにはボールを持って行ったものだ。住民が商店と一体化してお互い、少しずつ努力して無意識にゴミを無くしていたのだろう。ゴミ収集も年を追うごとに増えていったような気がする。そして夢の島がパンクして燃やして地球温暖化に貢献するようになってきたわけだ。

フランスではスーパーにおいて食品の廃棄が法律で禁止されているわけだが、我が国では家畜の飼料にするから問題ないと、無駄に作って本来の目的外に大量に使うことにご執心だ。惣菜を作るには多くの調味料も必要になっているわけで、それらはかなりの割合で海外からの輸入に頼っている現状を考えると、日本の食卓は本当に大丈夫かとどんどん不安が募るばかりだ。例によって調子良く話がずれてきているが、ゴミを無くすには一体どうすれば良いのでしょうねというところに無理やりもっていかないといけない。

パッケージを不要にするなんてことは出来ないことと思っている。思っているのだが本当にそうなのだろうか?PCなどを購入すると段ボールや本体よりも高価なんじゃないのというゴージャスな箱が廃棄物となって出現するわけだが、こんなものが本当に必要か?何か、間違っていないだろうか。良いものを大切にすり減ってどうしようもないところまで大切に使い切る。そんな良いものがパッケージレスで買い手に届くということは出来ないのだろうか。輸送効率を考えるとそれは理想論であることは分かる。分るが何とかゴミを減らしたい。何よりも共有している地球を汚して平気な心を無くしたい。