桜の季節が温暖化のお陰でどんどん早くなっていて、年度内で立派なお花見が出来るようになった。なったのだかなってしまったのだか、まぁ、人間が作った桜が人間の仕業で、人間が勝手に決めた暦の上で早く咲いているだけであって、喜ぶことも嘆くことも馬鹿馬鹿しい。愛でればよろしい。それだけのことだ。
母の手のぬくもりとやらを思い出させるのは桜であって、そう女々しいことを言うならば、卒業式よりは入学式の満開が好ましい。なんだかんだ言っても、やっぱり入学式の初々しい若者の笑顔と桜は良く似合う。冬に耐え、そして眩い輝きを見せる桜は、何と人生と重なることか。
卒業という「業を終える」ということなのだが、終えたからこそ次があると考えると、尊い言葉に思えてくる。一所懸命に頑張って、その結果、その頑張ったご褒美に証書を頂ける。努力証書に恥じるべき者も多いのだが、まぁ、小生もその部類だが、業を終えた価値を自ら見出さねばならぬ。それが卒業なのだと思う。
感傷的に成りがちで、花向けの言葉を小馬鹿にしそうだが、いやいや、先人の言葉は重いものだ。まぁ、他人を軽んじて自分だけが努力していて、それを認めない奴はゴミみたいな風潮があるが、全く持って大間違いである。真の努力は首を垂れさせる。そうならないのであれば努力をしていない。それだけのことだ。