見えるものに対してどう実践するか

見えるから気になるのではあるが、見えなくてもそこにはあるということを、ちょっと前に「昼間の星空」の例えで言った。宗教の基本はそのあたりにあるのだろうが、このネタはおっかないので、これ以上はつっこまない。あんまり明確には見えないけれど、研究論文の世界的位置づけが下がっている日本というのが気になるところだ。

評価指標はいくつかあるわけだが、世界的に重要なというか、引用がじゃんじゃか増えている分野での論文がどれだけあるかという見える指標になっているところがポイントで、見えないつもりになっていても見えているという事例であろう。目を塞いで見えませんと言っても通じないという事だ。

その昔、それこそその昔だが、米国から持って帰ってきた半導体デバイス開発関連技術を、根性で磨き上げて、加えて、企業群が凄まじい額の投資をして、世界をけん引していたというのはまやかしではない。実際にその瞬間は間違いなくあった。工科系の指標はGDPにおける論文の関わりということで研究者は評価されるとすると、挑戦することを完璧に止めてしまった日本の企業からの投資は見込めないとなると、はてさて、どうしたものだろうか。

ノウハウにしても知財にしても、小銭すら大学に出さない我が国産業界と組めと仰っても、それこそ見えないものに投資はしませんよと言われておしまいというところか。努力という目に見えないけれど、ひょっとすると価値に繋がるかもしれないところにベンチャーの起業などがあるわけで、成功したら買い叩いてやるというこの国のあり様では未来は無いわなぁ。見える身の丈を大切に進むだけである。