見えるものを正しく見る

見えないものの代表格となると心の有り様ということになろうか。自分自身ですら見えないのだから、他人事となったら、これはもうどうしようもない。手の出しようもない世界であり、それを見える化させようというのはかなり厳しい。宇治平等院などに出掛けてみると、見えない極楽を如何に具現化して見える化してきたか、そのお金の掛け方に恐れ入るばかりである。

過去の幻想なのだが、主要先進国という単語がありましたな。これも作ったものが売れて、貿易黒字になってお金がじゃぶじゃぶある国がその仲間内という感じだったのだが、今の我が国はそこからは完全に外れている気がするのです。いや、むしろ、主要先進国と威張らなくても良い時代になっているのだと実感するべきなのでしょうね。

シェアリングエコノミーが当たり前になり、大量に作って廃棄するという大量生産型社会は昔のものになっているにも関わらず、自動機械でじゃんじゃか作りまくろうという考え方から脱出できない世界でありますな。マサイ族の皆様、一人一人に携帯端末がいきわたり、太陽電池の独立電源で生計が成り立っている社会があるなかで、ある程度の消費が持続的に成されれば経済は回るであろう。何を消費するのかが問題ではある。

やはり大きなお金が動かないと、経済というものは窒息し死に至るのは間違いない。小生などは増える書籍はほったらかしておいたとしても、身の回りのどうでも良いものは消し去り続けている。手の届く距離にある文化は個人主義で満ち溢れている。誰かが持っているからだの、流行っているだのなどとは縁遠い世界に生き始めている。100億通りにカスタマイズされた世界経済、まだ見えないが、それに向かっていくのが工学というものではないか?