見えるものに向き合う人

縄文の遺跡においても環濠があり、侵略に備えていたことが伺われる。住むという場所は生きる拠り所であり、身を守ってくれる唯一の城という事になる。人間は協力して外敵に向き合っている時以外は隣人と仲良くなっていないということなのだろうか。寂しい限りである。目に見える同一種族を敵と認知して殺傷していく。何と恐ろしい本性であることか。

300年間続いた江戸時代の終焉だって、無血開城の後に、やっぱり流血が無いと気が収まらないという薩長同盟の方々が、白旗を上げる人達を攻め滅ぼし、国から智慧を消し去っていった。それが日本の国の在り方だったのではと、国を巡って実感する。見えない心の内を、エゴという形で見える化して、それに反旗を上げる人達を見えなくするという行為をするということが人間の本性だとすると、人間を辞めたくなる。

一方で、人が生み出す見事なまでの芸術や、丁寧に作られた家具や器など、身の回りのものを丁寧に作り込む所作に出会うと、人間であって良かったとも実感するのだ。これなどは見えるものを心という見えないものに見せる形にしているのだろうと、人の力の凄さを体感するのだ。

見えなくてもある、あるけれども見えない、見えるものを見えるようにする。これこそ人の思考の有り様なのではと思う。見えるものをしらんぷりするとか、見えないふりをするとか、そんなずるさではなく、智慧を深める個人主義こそ、コンパクトではあるが経済的に自立していく日本の在り方ではないか。新しい、本当に素晴らしい智慧にきちんとした対価が与えられる。そんな社会に向けて動き出さねば消えていくのだろうなと、やはり丁寧にこつこつしかないなと納得している私であります。