研究不正

研究不正の話題が、一週間、何処からも聞こえてこないなんてことが無い世の中になってしまった。政治の不正などは大きな力と、特に日本人の忘れやすさで消えてしまうが、研究不正はめいっぱい叩かれる。それは正しいと思っている。いや、叩かれなければならないのだ。

不正だそうでないかというところの根幹が倫理と言うことになるわけだ。勘違いは不正ではない。思い込んで思い詰めて、ふっとそれっぽい結果が出てしまうと、焦って「正体」と勘違いすることはある。そこで立ち止まって3回やってみて、同じ結果が出てきたら、それは結果であろう。ただ、今、研究者にはそこまで時間が無い。それがまずい。

社会に研究者にじっくりと研究をさせる余裕が無い。自己評価のための書類と常に格闘し、競争的資金の評価者に怯え、任期と戦い求められる成果をニンジンにして、自ら馬車馬になっていく。

丁寧に準備をし、じっくりと考える。ゲームでは無いのだ。誰かが創った道ではない。自然が長い歴史を掛けて生み出してくれた自然のほんの一端を見せて頂く崇高な活動だ。「だから何?」と社会に言われてもほっとけば良い。それが真実ならそれで良い。それを守るのが大学だし、国家はその精神に対して、札束で頬を叩くことをしてはいかんのだ。