時短に想う

この季節、土日に街中を眺めてみると、運動会なる活動が小学校で成されている。極めて気温が高いからとか、授業の時間が無くなるからという理由で、短縮型の運動会が流行っているそうな。時短運動会という事らしいが、子供の頃の体を動かす経験を少なくしているだけではなかろうかと思うのだ。給食費を払わない家族がグアムで暢気に遊んでくるなんて時代だからこそ、運動会くらい思い切りやったらどうなんでしょうね。

炎天下で動き回ると、体調不良を訴えて、危険だから時短にするというのが筋書きらしいが、炎天下で教える体力が先生の側に無いんではないのかと、小生などは思ってしまうわけだ。応援席の親も「応援なんかしてらんねぇよ」という家族の絆なんてものが希薄になり過ぎている現状を反映しているのかなと、妙な方角から記事を見てしまう。

炎天下で走り回る子供達がえらいこっちゃなのは分かるのだが、帽子をかぶって、休み時間もあって、給水も出来て、なぁんて、砂漠に放り出されているわけでは無いのだから、それくらいは我慢出来る人間になってもらわないと困るという観点は、既に許されない社会なのだろうか。バイトが中心となって、適当にボタンを押していると卒業できる仕掛けなんてのが当たり前になっちゃっているからなぁ。

大学に金を出しても研究成果が出ないから潰すとか、博士課程に進学する学生が増えないのは大学のせいだみたいなことばかりが記事になるけれど、そこで学ぶ人間の耐える力が落ち切っているんじゃないのかという言い分は採用されないんでしょうね。ターミネーターの如くに執念深く、エイリアンの様に無限の活力を持つ。そんな人間を育てるなんてのは流行らないんでしょうね。何も生まれないわけだわなぁ。