普通を考える

結局のところ「普通が一番だな」なぁんて日和った言葉が頭を過ったのだが、『普通の生活』ってどんな生活だと思ってネットを眺めてみたら、ご同輩がちゃぁんといらっしゃる。ただ、サイトによると大学生の将来の結婚像みたいなことの羅列で終わるパターンが殆どで、『普通』の個人的思想の評価基準が述べられているだけだ。年収は500万円とか、3000千万のマンションに住んで、年一回は海外旅行に行って、子供は中学校から私立に行って・・普通か?田舎に移住して、豊かな自然に囲まれる生活をして・・普通か?

どうも、何か比較出来て定量化しないと普通では無いらしいし、その普通というのが願望というか、普通には閾値があって、それを超えないと普通では無いという考え方が『普通』らしい。政治家殿も叫んでますからね、勝ち組・負け組って。富裕層が勝ち組らしいが、富裕層って金銭だけで測るけど、それで良いのか。鴨長明みたいな生活は富裕層な気がするが、これは小生の価値観ということで、富裕なんて単語ですら普通では無い。勝ち・負けが人生にあるのかと言われれば、それも答えに窮する。

バブルの後、大量の解雇者が出て、派遣業という業態が確立し、それを政府が後押しして、大会社はなんぼでも首を斬れるように設定した。忙しい時だけ雇用する季節労働というのがあったけれど、それがシステム化されたということですな。いつ、仕事が無くなるか怯えながら務めることはかなり厳しい。承継枠を頂いたのに、明日から来なくて良いよと言われるかもしれないと思ったら、努力なんてとても出来ない。出来る筈はない。

人間らしい生活なんて言葉も聞きますが、これもまた解せない表現だ。24時間働いても活動を辞めないターミネーターみたいな人もいれば、10時間寝ないと次の日に支障をきたすという方もいらっしゃる。その人らしいという表現が適切なのでしょうけれど、組織は平均を求めるし、雇用されるとそれを強要されることになり、ブラックだなんだということなる。社会的にこのようなことが叫ばれるのは選挙の時が最も多かろう。そんな視点で世間を眺めながら『普通』と『人間』というものを見つめてみたいとは思うのだが、『人間』は荷が重いので、普通ってなんだろうと考えてみたい。