エントロピーを下げる普通

普通って何かななどと考えたのは、先週、東京に行って大阪に行って浜松に行ったのですが、大企業の営業担当でも無いのに、新幹線がお友達みたいに暮らしていて、周りを見渡した時に海外旅行客などの群れに出会ったからだ。海外の皆様は日本の働き方とは全く異なり、クリスマスが過ぎるとサマーバケーションの計画をするくらい、仕事以外の時間の過ごし方を熟考する。有給休暇を5日間使うことを強制される日本とは大違いだ。

勿論、仕事における集中力は凄まじい。なぁなぁで仕事なんかしない。仕事は生きるためのツールという割り切り方は凄い。学者の場合には、学究担当、講義担当、行政担当が明確に分離され、学究担当教員が会議に出るなどと馬鹿なことは無い。数年に一度の評価に対しては冷徹なまでの評価が成され、別の職に就かれる方もいらっしゃるが、必死にやっていらっしゃるから、その成果を活かせる転職によって、自らを輝かさせるポジションを見出せる。

日本の『普通』は悲惨な未来だけが口を開けて待っているのみだ。地方から東京一極集中が問題だと叫んでいるが、地方に仕事が無いのだから、一極集中していくに決まっているではないか。仕事はありそうで無い。光熱水量、家賃、その他、空気以外で必須の支払い項目だけでは生きていけないのだから、それ以上の賃金が重ならないと、それが得られるところに脱出するのは当然の事。活動を電子情報に置き換えることはエントロピーを下げて価値を上げる活動である。極めて優れた活動で、それを実行している若者達に敬意を表する。

当たり前と普通とは全く違うのだけれども、グローバル社会なのだという『普通』に生きる方々にとって、ペーパーレス、固定住居レス、貨幣レスなんてのは当たり前。そんな人達と共に生きていることを納得しないといけないのだ。戦前に生まれた親に育てられた人々と、そんな想いをさせたくないと育てられた親に育てられた人々と、そんなこと関係ないと育った親に育てられた人々が混在しているのだ。『普通』ってなんだと考えること自体が異常なのだと納得するしかあるまい。故きを温ねて新しきを知る前に、目の前が瞬間、古きに変わる。そのスピード感を普通と思うところから始まるのでしょう。凄い時代だ。