聴取力

『普通』に生きると言っても、普通が全ての人にとって異なるのだから、普通に生きているから放っておいて頂戴と願ったとしても、邪魔になると感じる人はそれを排斥するだろう。ちょこっとでも自分の方が経験があるなと天狗になっている輩は、いじめに走るわけだ。それが今の『普通』の社会なのだなと諦めるしか無いのかもしれない。結局のところ『普通』の基準を自分に置くと、『普通』の基準が人類の数だけ出てくるという事になる。だから『普通』の生活などあり得ないという事になる。

だとすると、他人をどう思うか、他人がどう幸せを感じるかという、考え方そのものを『普通』に設定すると、バリエーションは若干減少するような気がする。勿論、我儘勝手を幇助しますよという事では無い。誰も泣く事の無いゴールを共に描いて、そこに共に向かっていくという心構えを持つことを『普通』に置いてみると、これは案外、普通に生きることが出来るようになるのかもしれない。

様々な学問があって、その昔は森林学なんてものがあって驚かされるが、昨今は予兆学などという、占いか?とも思ってしまうものまで学問になってきた。確かに世界的な状況が瞬時にネット上に乗ってくる現代において、予兆を見出すことはAIの根幹だし学問に成り得るなと感じる。ただ、サンマ資源の激減が叫ばれる昨今、予兆があっても動かないのが人間である。ましてや学者の言う事に従う国民なぞ、何処に居るのか?

結局のところ、知らない間に何かが変わっているというやり方が今後も続くのであろう。地球温暖化でお金を取っていた人達が、次は海洋プラスチックでお金儲けしようと世間を動かしている様に、偽善的な動きは自然保護を伴うから活動操作にはうってつけだ。これが苦役を伴う正しい事では誰も動かない。後の祭りになった時責任問題を掲げるだけだ。次の世代の当たり前を追いかけて、それを『普通』の生活に結び付けたいと頑張るのだが、足を引っ張る力が強く、そっちになかなか行けない。ご同輩も多い事だろう。基本は謙虚な聴取力。それしかなさそうだと、それこそ当たり前であるがそう感じる。