農業産品そのものは自然との共生の根源であるわけだが、大規模なダムを作ったりというお話になると、これはどうなんだろうなと首をかしげてしまう。河口堰なんてのは最悪の愚策だと思うが、これを言い出すと土木研究をしていらっしゃる方々から強烈なお叱りを受けるのだが、大地も人も地球と太陽が生み出した産物で、そこにクサビを打ち込み生態系を破壊していることは否定できない筈である。台風が来れば大水害が発生し、人の命を脅かす災害を発生させるわけだが、それとて人が作り出した街によって生じる災害なんでしょ?と言いたい。
地球からみたらほんのくしゃみでも、生命という偶然の産物にとってみれば、それは猛威であるわけだ。そのなかで作物を育て、生きているのが人間である。大量増殖のメカニズムによって最強の動物の面をしているが、創造主の地球と太陽に掛かれば無いに等しいのだ。自然への感謝と畏怖を忘れると、地球をほじくって鉱石を合成し、人の頭に殺戮の炎の雨を降らす蛮行に出るのだ。それを正当化させるのだ。まぁ、この国にはその支持者が大半を占めるのだけどね。
話を農業産品に戻すのだが、米とか麦とか、大量生産が人の手で為され、種の改変まで行っているものに囲まれていると、なんだか農業って人工的活動だと錯覚してしまうのだけれども、植物がなんとか次にDNAを繋ごうと努力する行為を横取りして、自らの活力に換えているだけだ。頂きますとはそれを作って頂いた人々への感謝だと言われたことはガキの頃から無限にあるが、大地と太陽と、そして植物の命を育む力を横取りしてごめんなさいの気持ちを込めろと言われたことは無い。この辺りに間違った教育、倫理の根源があるのではとふと考える。
今年の5月連休に能登半島を40年近くぶりに回った時に、美しく手入れされた棚田を拝見した。耕作不能地を生産現場に転換し、それを人力で必死に守る活動に感動するとともに、増え続けた人類が選択するべき行動の一つなのだなとため息が出た。命を繋ぐために他の命を守る活動を絶つ。それが人類の活動なのだから、もう少し、他人を思いやっては如何か?胸に手を当て続けるわけだが、なかなか答えが出てこない。苦しいところだ。