即位礼に思う

知恵と慈悲深さと武力の象徴である剣璽等承継の儀から始まる即位礼の日に、天の汚れを祓う大風がやってくるところが神がかっていているなと、勝手に思ったのであります。日本の国の仕組みがいつできたとかなんだとか、そんなことはほったらかして、存在する頂点ではあるものの、決して統治はしないというのが今の在り方。これはこれで良いと思っています。憲法にもありますしね。

意見を求めて決めるのか、独善で決めるのかは大違い。共通認識のベースを作る努力は惜しんではいけない。その上で世論が形成されて、耳を傾け、方向性を定めたら、現場に近い人達の議決を待って、それを固めて前に進める、あるいは戻る。為政者ってそんなものでしょう。古代国家においては大王の地位が生まれて、必然、為政者となっていったわけだが、卑弥呼のお話にしろ、ダビデ王にしろ、皆にせっつかれて誕生したというところは同じで、集団としての国家の出来方ってそんなものなのかなと感じるわけです。

出雲国風土記にあるように、能登の方面との交流で翡翠の加工技術が生まれ、勾玉が出来(剣璽の「璽」ですな)、朝鮮半島から伝わったとされる製鉄の技術で、地元の砂鉄を打って作った剣、四国、岡山と伝承され出雲に伝わった青銅によって鏡を造り三種の神器が出来たわけだが、本物かどうかは置いておいて、それを伝承することが大王の条件としているところが、何やら面白くて良いなと思うのです。御璽・国璽の前にそれらが伝承されるというところに価値があるかな。

上皇陛下の時は博士課程の学生であって、元年度卒業だったので、小生にとっては就職年代が平成そのものでした。それがいよいよ次の年号になったわけで、気持ちを新たに頑張らないといけないなと思いつつ、流れる時と共に進化し続けないといけないとも思っています。日本にとって節目であることは間違いなかろう。そう思っています。