狭すぎる堪忍袋

完全に明けたわけではないが、取り敢えずの赤日の連続は終了してしまった。明日、頑張って出勤すると、土日がやってくる。連続した時間は貴重である。成さねばならぬことが途絶えることはない。どの場所に居ても同じなのだが、夕刻に自転車での帰路、不可思議な状況に出くわした。街が賑わっているのである。カラオケスナックなど、大音響で道まで絶叫が伝わってくる。一軒ではないのだ。街が明るいのだ。非常事態宣言は何処に行ってしまったのかと、2週間後が恐ろしい。

連休前は暗かった通りが、その時刻よりも後だというのに、明らかに明るいのだ。勘違いかと思って走行していると、先月末は気が付かなかった場所に明かりが灯り、人で一杯になっているのだ。おいおい、どうなっているのだろう?確かに昨日は愛知県では新規感染者の報道は無かった。しかし、殆ど検査が実施されていない状況である。こんな調子で良いのだろうか?飽きっぽい日本人の性と言えばそうなのかもしれない。

公園に遊ぶ児童が煩いと、子供を蹴散らす大人も居れば、必死の我慢に耐える人を余所目に、ストレス発散に努める大人も居る。職場で嫌味を言う大人の方がなんぼか可愛らしく思えてしまう。御器所から平手まで、延々とそんな有様なのだ。こんなことがあっても良いのか?いや、あってはならないだろう。

様々な月例会議のウエブ会議が二巡目に入ってきた。もう、このままウエブ会議で良いのではないかと思う。メール会議ではなくウエブ会議であれば、質問はきちんと受けられるし、録音も出来るので、議事録も正確に出来る。言った言わないもはっきりする。ストレス耐性が試されている昨今である。我慢するところは我慢する。例え我慢が目的化されてしまっていたとしても、それはそれで仕方がない。天災に文句は言えない。それだけのことだ。